ラクシュミ 〜221譜の讃歌〜





     『序章・絶対禁忌』:前  Lizza








   『 由緒ある決闘場は、由緒ある血族の者にある。

     即ち出場者基、審判者も血統ある闘士に限るものである。

     この誓約、破る事勿れ。


     《闘戯項目 第三》   リベリオン・ヴェーダルド・ヨニ・イスカルオル』








   大陸暦  1429年



   帝都シャクルム   宮殿内 : 上層部大廊下





   穏やかな城の日常でいつもと違った様子の者達がいる。
   それらは城の兵士達で、報告をしあったり走り去ったり騒がしいものである。
   目的の無い散策の中ムシュリカはそれを眺めていた。
   ここ最近、兵士達は忙しなく城中を走り回っている。
   『地帝聖誕祭』と引けを取らない盛大な祭日でも近いのだろうか。
   取りあえず後で会うアーサーに話でも聴いておこうとぼんやり思った。

  「お疲れさまです。」

   聞こえるのか聞こえないかの声で、通り過ぎる見知らぬ兵士達にそう言った。
   彼らは直ぐにそれに気付いて、ムシュリカに敬礼をすると走り去っていった。



   平凡とは遠いが共に過ごせる人達のおかげで、城仕えはそれなりに楽しく思えていた。

   クローディアというと、あの日以来も元と変わらずムシュリカと接している。
   あれは夢だったのではないのだろうかとも感じる事もあるが、ムシュリカとクローディアとの間の
   確執が多少なりとも解消したのは日々の小さな出来事で実感できた。
   夜毎、ムシュリカは彼の為に『鎮魂歌』を謳い続けている。
   彼がその詩の意味を知る為に、自分自身もそれを知りたいが為に。

   彼に謳う。 それがムシュリカがクローディアの為に出来る事だから。
   彼と心を通わすのは苦痛だけではないと思えるから。

   クローディアよりも変わったのはムシュリカの方なのかもしれない。
   仲間達の生活や街の様子、今日の食事や明日の天気、どうと言う事でも無い事柄もクローディアに時折伝えるのだ。
   彼はうんともすんとも答えず、聴いているのか聞こえないのか終始本を眺めるだけなのだが。
   それでもムシュリカは彼と過ごせる時間が大切だと思い始めているのだ。
   自分の『世界』がクローディアの『世界』に繋がると信じ、無意識に彼を受け入れ始めている。


   普通とは離れている今の生活に一喜一憂しているとムシュリカの元に先ほどの兵士がやって来た。
   ビシッと敬礼をする彼に対し、ムシュリカはそっとお辞儀をした。

  「皇太子殿下直轄護衛騎士であります。」

   護衛騎士となれば彼らは同僚とも言えるべき者達である。
   ムシュリカは背筋を引き延ばし、彼に尋ねた。

  「ご、ご苦労様です。 一体何の御用で・・・?」

  「皇太子殿下より貴方様に御伝令です。」

   『もしや私に至らない所があったのでは。』
   クローディアに対しての警戒は解いたものの、まず最悪の事態を考えてしまうのがムシュリカの本質なのである。
   怪訝そうな顔をしている兵士に大丈夫だと伝えた。
   彼らに心配をかけるわけにはいかない。
   騎士はムシュリカの焦る様子とは裏腹に、彼女に告げた。

  「今後の行事、『死闘戯大会』をジェリーベル卿と共に御相談との事。」

  「『闘戯大会』・・・ですか?」

   聞き慣れない行事にムシュリカは再度尋ねた。



   彼の部屋、クローディアの部屋は珍しく光が射してあった。
   それは同じく居るアーサーが勝手にしたのだろう。 その証拠に隣のクローディアは不機嫌だ。
   アーサーは待ちかねた様に扉で立ち止まっているムシュリカの手を引きテーブルの前まで誘導した。
   テーブルの上には焼菓子や果物があり、正にお茶会ならではの支度である。
   茶の嗜みなどムシュリカは齧る程度しか知らなかったが、アーサーもクローディアも気にしてないようだし丁寧な挨拶だけをした。


  「さぁさ! お茶にしようか!」

   せっせと彼は茶葉を慣れた手つきで炒れ始める。
   呆と眺めてたムシュリカは我に返ると『私がやります』と直ぐに彼を止めにかかったが、
   これ位やらせてくれと彼は言って、ムシュリカに座るよう指示した。

  「遅い。」

   彼女が座ろうとした時のクローディアの開口一言目だ。
   未だアーサーの事で不機嫌らしい。 その彼の八つ当たりの捌け口がムシュリカに行ってしまう。
   アーサーは確信犯なのか気付いていないのかクローディアを無視して茶を注ぐ。
   酷く、居たたまれない。

  「休み時間の中すまないね。 君も交えて話したいと思ってさ。」

   アーサーは銀の匙に山盛りの砂糖をたっぷり乗せて紅茶に混ぜた。
   茶そのものの味を好むクローディアはそれを見て増々顔を険しくした。
   アーサーのこの行動も恐らく態とであろう。

  「実に良い紅茶と菓子。 そしてこの天気。
   こんな絶好の日は外でお茶会でも開こうと思うんだが、生憎この仏頂面は部屋に引きこもるのが好きなんでね。
   仕方なしにこの少人数だ。 ・・・クロード、君も少しは社交性を持ったらどうだ?」

   アーサーは時々だが彼に仕える『捕虜』達と茶会を開いていたのをムシュリカは思い出した。
   費用も時間も掛かると言うのに、それでも実行してしまう彼の行動力は大したものだと思う。
   尤も、悪く言えば奇人変人。 良く言っても酔狂な英雄だ。
   アーサーの言葉にクローディアは直ぐに反論する。

  「一国の皇子が易々と公民の場に出て良いとでも思ってるのか?
   俺の趣向にまでお前に指図される覚えは無い。」

   さすがに引きこもりには反論の意を示した。
   アーサーも茶化しすぎたと思ったらしく「悪かった、悪かった。」と直ぐに彼に謝った。
   傍らに居る『皇太子付き』は何故危険を冒してまで洒落にならない事を言うのだろう、と彼らを眺め感じていた。


  「さて、クロードとムシュリカちゃん。
   今期に行われる大行事の一つ『死闘戯大会』の打ち合わせを始めようか。」

   皇太子の機嫌が幾分治まった所で彼は本題を持ち出した。
   クローディアは鼻で返事をして、ムシュリカは頷いた。
   言葉で返事をしないこの二人はなかなか似ていると、アーサーは内心笑っていた。


   『闘戯大会』とは、
   毎年豊作の月に行われる国民行事であり、言葉の通り出場者は決闘を、観戦者はそれを見て楽しむのだ。
   『珍獣と剣闘士の対決』、『闘士の決闘』や『戦車共闘試合』また『見世物芸能』と関連の無い催しもあり、連日行われるだけ数多くある。
   選手は何れも『人間』や『獣人』などの『捕虜』であり、彼らを戦わせる事により『魔族』は余興を楽しむのだ。
   血を流し命を奪いつつも歓声を忘れられない選手は毎年出場し、志願者が後を絶たず既に300年余りの歴史がある。

   話を聞いたムシュリカは血で汚れゆく闘技場を想像し、息をのんだ。


  「丁度今から二週間後『アロケナ闘技場』にて三日の間、大会は行われる。
   開会は正午、閉会は今回は日が沈むまで。 つまりは日が落ちるまで時間は無制限となる。
   その二週間後からの三日間、『皇族』と『元老院』は闘技場の傍の『夏の御殿』にて今期は生活する事となるかな。
   ・・・って、皇太子殿下ぁ聞いてますかぁ?」

   既にクローディアは話を無視して本へと移っていた。
   きっと『別の場所にて生活』に嫌気がさしたのだろう。
   ムシュリカは彼の事が分かりつつあったから、彼が不貞腐れる理由もすぐ分かった。

  「何だ? 聞いているが。」

   明らさまの生返事の彼を見て諦めたのか、アーサーは話を続けた。
   クローディアとムシュリカの部屋割り、選手達が滞在する事となる宿泊施設、食事の注文、皇族の指定席など。
   大方の予定を二人に説明し終えただった。

  「・・・出場者は闘戯項目にある通りの志願者のみ。
   出場人数は凡そ120名。 審判者は僕のとこから出すよ。
   毎年観戦者が多いから今年から抽選にして、それから観戦者の出場席の手配も順調に―――・・。」

   そこへ鈴の呼び鈴が三度鳴る。
   アーサーは扉の方へ顔を向け、クローディアに目を向けて指示を迫った。
   彼は仕方なしに扉の向こうの人物へ尋ねた。


  「誰だ?」

   彼は手元にあった白い仮面を顔につけつつ本を閉じた。
   扉の外から豪快な声が聞こえた。


  「茶会をお楽しみの最中、失礼いたします! 殿下直属の近衛隊長のエンディオです!
   入室しても宜しいでしょうか!」

   その声にムシュリカは思わず驚いて肩を震わした。
   向かいに居るクローディアは仮面を外して、驚いているのか珍しく目を開き扉を見ていた。
   彼がこの事態を多少動揺している。

  「これはこれは・・・珍しい客だな。」

   アーサーは苦笑し頬を掻きつつ、外に居る兵士に「遠慮するな、入れよ。」と、指示した。
   スッと扉は開いて、兵士の姿が露になる。

   大柄の身体に黒の短髪、浅黒い肌に鋼鉄の鎧。
   腰に差してある剣も大剣で、皇室の紋章付きの盾もかなりの重量がある事だろう。
   正に『百戦錬磨』と表せそうな備えで、見た目で判断する限りかなりの豪傑だと思える。
   しかし彼はその『隊長職』とは合わない太陽のような笑顔の明るさを持っていた。
   ムシュリカはこの印象の強すぎる男に一歩退いた。


  「皇太子様、アーサルト卿。 このエンディオ遠征に立つ為、御挨拶に来た次第であります!」

   どうやら律儀に旅立ちの挨拶に来たらしい。
   言葉をかけられた二人は彼の発言よりも彼の出現に驚いているようで返事はしなかった。
   エンディオの言葉へ返事をしたのは口八丁のアーサーだった。

  「あ・・・そうだったな。
   でも、君もわざわざここへ来る必要は無かったろう? 言伝で他の者に頼むのも良かったろうに。」

   その発言に「部下達に個人的な用件を押し付け、煩わしい仕事をさせる訳にはいかない。」と丁寧に答えた。
   皇太子の近衛隊長がここまで部下へ配慮があるとは思っていなかった。
   あのクローディアに仕えている事に信じられないのだ。 クローディアよりもアーサーに近い温かさを感じる。
   彼の言葉を聞くなり『誰かさんに、君の爪の垢をぜんじて飲ませたいよ。』と、態とクローディアを睨んでいった。
   しかし、クローディアは無視して本に目を進めていた。

  「して、皇太子様。 貴方の傍らに居る女人がもしや・・・。」

   エンディオはムシュリカへと視線を向ける。
   強い視線だ。 だがそれには優しさと温かさがある。
   ムシュリカは何故か安心して彼の目を見据える事が出来た。


  「ああ。 今噂の『皇太子付き』ムシュリカちゃんだよ。」

   答えないクローディアの代わりにアーサーが答えた。 『皇太子付き』の部分を強調して。
   ムシュリカの小さい肩にグンと重しが乗った感じがした。

   『皇太子付き』の役職は兼ねてから城の中でも嫌われた役職で、人を尽く拒絶する『孤高の皇太子』が傍らに寄せる者だ。
   だからこそムシュリカは今、城中でも街中でも有名人なのだ。
   『夜会』でのムシュリカの突然起こした『奇跡の詩』、それは立ち所に広まりムシュリカは『詩の名手』として挙げられる様になった。
   情婦や妾、右腕の実力者などのおかしな噂が立ちこめられているが、事実を知っているのは両者とアーサー位だ。

  「おお、この方が噂に聞く・・・。」

   実に大きな男だ。 近づいてみればそれは明白で、対相の小さな少女は思わずおののいた。
   彼はムシュリカに近づいて静かに礼をする。
   彼女も反射的に急いで礼をして、跪く彼を見た。
   年齢的にも年期的にも彼の方が格上の筈なのに、跪かれると申し訳なく感じてしまう。


  「殿下よりお話は伺っております。
   私は『皇太子直下近衛騎士隊長』エンディオ・ヘラクレトス。
   予てより御会いしたく思っておりましたムシュリカ殿。」

   彼はムシュリカを侮蔑の目で見ない。 それが不思議でならなかった。
   彼も噂で聞いているなら、ムシュリカが『捕虜上がり』と言う事を知っている筈だから。
   それどころかかなり恭しく接する。

  「そ、そんな止めて下さい! 跪く必要なんて無いんです!私は―――、」

   慌てるムシュリカを見て、アーサーは笑いながら言う。

  「な、言った通り面白いだろ? 彼女こういう扱いには慣れてないからこんなに焦るんだ。」

   からかう様にムシュリカとエンディオに向けた。
   アーサーに続けてクローディアも言った。

  「そんな態度とると混乱する一方だ。礼儀は極力止せ近衛隊長。 どんどんこいつが情けなくなる。」

   それはムシュリカに対して失礼じゃないのかとアーサーは問いたかったが、今更尋ねても返事をしないのは分かっていたので口を閉じた。
   皇太子に言われちゃ仕方なしと、エンディオはムシュリカと同じ様に立った。

  「貴方の『豊穣の舞』の歌声、見事なもんだった。 一度面と向かって会ってみてぇと思っていたんだ。」

   砕けた言い方になって、漸くムシュリカも安心できた。
   やはり自分にはこっちの方がしっくりくる。

  「それは、ありがとう御座います。 私の歌で御喜びになれたなら・・・この上なく光栄です。」

   なるべく言葉を選んでムシュリカは答えた。
   無意識に謳った詩をエンディオも聞いていたと思うと気恥ずかしさ共に気まずさが生まれる。
   それが切欠でこの身の上になったのだから。 運が良いのか悪いのか未だに分からない。
   彼はずっと背の低いムシュリカを見下ろし、じっと見つめる。
   思わず縮こまる。 叱られているような気分だが、彼はそれに気付くと太陽の様に笑って
   ムシュリカに「すまねえな。」と言って落ち着かせた。

  「思った通り、良い顔付きだ。 殿下が御選びになったのが良くわかりますよ。」

   クローディアに顔を向き直して彼は言った。
   どういう意味なのかムシュリカはよく分かってなかったが、良いと言われて悪い気はしなかったので言及はしなかった。
   クローディアは無視してるのか聞いてないのか返事はしなかった。
   困った様に彼は「参ったなぁ。」とアーサーに助け舟を出した。

   聞くべき事に気付いたアーサーは彼に一緒に茶をしないかと誘ったが、彼は勤務中ですのでと言って丁重に断った。
   そして部屋の時計を見ると任務に赴かなくてはと言って、扉の前へと歩いていった。
   彼がかえる前にムシュリカは思い出した様に彼に言う。


  「あ・・・、あのっ!!」

   彼に何か言わなくてはならない。 思わずそんな気がしたのだ。
   そのムシュリカの声にエンディオの他アーサーも驚いた。

  「何でしょうか、ムシュリカ嬢?」

   急に引き止められた事にエンディオは多少驚いていた。
   見た目は大人しそうな、か弱い少女が自分と負けないくらいの声で張ったからだ。

   エンディオは良く言葉を交わした事も無いムシュリカに笑顔で接してくれる。
   それはムシュリカが『皇太子付き』で『女性』である。
   というのも含むが、何より『対等』に扱ってくれるからこそアーサーと同様なんらかの魅力が彼にあるのだろう。
   ムシュリカは何としても彼に伝えたい事があった。

  「え、えと・・・。」

   いざ、言おうとなると言えなくなるものだ。
   アーサーは笑いをこらえてムシュリカの言葉を期待している。
   そしてムシュリカは恥ずかしさを乗り越え、真っ直ぐにエンディオを見て言った。

  「また御会いしたら、お話ししましょう。 もっとたくさん、ここで話せなかった分・・・。」

   精一杯のムシュリカの気持ちだった。 拙い、もっと良い言葉で言い表せないのだろうか。
   しかし十分だったらしく彼は笑ってムシュリカに答えた。

  「ええ俺も、また貴方に会うのが楽しみだ・・・。」

   それこそ太陽のような温かさで、二人は互いに笑顔を見せあった。
   そうして彼はクローディアの部屋から退室していったのである。



   『闘戯大会』の予定表もまとまり、ムシュリカが退室してから部屋には二人が残った。
   一方の男は疲労の溜まった顔、もう一方は無愛想な仏頂面である。
   アーサーがテーブルの上の一つの資料を掬い上げてクローディアに尋ねた。

  「あいつさ・・・、いつまで参加し続けるつもりなのかな。」

   クローディアもそれに気付いて彼からその資料を引ったくった。
   どの項目を見ていたのか気がつくと、つまらなそうに彼の元へと返した。
   アーサーはその彼の行動に肩を落とす。

  「そんなに下らない内容か・・・?」

  「下らん。」

   即答だった。 アーサーは不服だった。

  「志願してそうした結果だろう。 死者が出ているにしろ後悔するのは死んだ後だ。
   そうなろうとなるまいと奴の自己責任で自己満足だ。 他人がどうこう悩むなど節介以外の何でもない。」

   珍しく感情論の意見を出す。 何故かと思えば今彼が読んでいる本が、心理学的理論の本だからだと直ぐに分かった。
   せっかく見直そうと思ったが、その類いの本からの答えは大した事無いと思ってしまった。
   それはクローディア自身の意見ではないのだから。

  「僕の気持ち・・・分かりませんか?」

   わざとらしく敬語で尋ねる。

  「知りたくもないな。」

   と、彼は冷たく突き放し本の頁を捲った。
   やれやれと、アーサーはクローディアから窓に目を移し、夕方に近い日の傾きを眺めていた。
   空が茜色に染まりつつあった。



   *



  「『闘戯大会』なら私も同行するよ。」

   就寝前にムシュリカに言った。
   今日は、あの子の部屋で寝泊まりする事にする。
   と言うより、同じ寄宿舎に暮らす様になってからこのような事は毎度あるものになった。

  「アーサーさんのお手伝いで?」

   手で髪を梳くあの子は、隣の枕に居る私に聞いた。
   そうと言えばそうなるが、一番大きな理由はムシュリカがあの皇太子と共に向かうからだ。

  「そう言う事。 アイツ以外と仕事多いんだよね。」

   適当な理屈を立ててベットへ向かうムシュリカに言った。
   確かに仕事は多いが私が手伝う程の手煩わしさは今回は無い。
   アーサーへ説得を繰り返し、私にも宿泊の手配をするよう苦労したのは勿論内緒だ。

   蝋燭の灯りを消せば、外の月明かりが一層増す。
   今夜は上弦だ。 丁度『闘戯大会』までには満月になるであろう。
   静かだ。 寂しくて温かい夜だ。
   隣に居る温もりと安心感がそうさせているからかもしれない。
   どうでも良いと思っていた睡眠が、ムシュリカのおかげで意味のあるものの様に思えるのだ。
   そう。 ずっと前から、こうして―――


  「ねえサリネ。」

   私が睡魔に身を委ねようとした時に、ムシュリカは不意に話しかけて来た。
   眠りそうになった自分を奮い立たせ目を無理矢理覚ました。

  「サリネって、・・・アーサーさんの事どう呼んでる?」

   突然、何をおかしな話題を持ち込むのだろう。
   なぜ、あのバカ主人の話をするのだ。
   取りあえず返事はすべきだろう。

  「どうって、『アーサー』・・・?」

   それ以外、無い。 アイツに様付けなど有り得ない。

   何を思い悩んでいるのか、ムシュリカは布団の裾を掴んで顔を半分隠す。
   名前で呼ぶ事に何か意味があるのだろうか。 そもそもアーサーなど皆呼び捨てにしているだろう。

  「名前で呼ぶ事が、どうかしたの?」

   まさか今更『ご主人様』と呼べば良かったなんて懺悔ではないだろうな。
   もしそんな悩みだったら、私は直ぐに『それでよかったんだ。』と回答してさっさと眠りにつくとしよう。
   ムシュリカは恐る恐る話す。


  「アーサーさんね。 いつも思うのだけど皇子様の事『クロード』ってお呼びなのよ。」

   あいつはいつも不躾だしな。
   自分の仕えている皇太子を呼び捨てなど、その様子じゃアーサーは今後誰が言ったって改めないだろう。
   それは度胸があるのかバカなのか。 というより両者は紙一重だろう。

  「『友達』だからじゃないの? それより悩みの種は皇太子か?」

   隣のあの子は無言で頷いた。
   ムシュリカの悩みは大概、城での生活と化粧の仕方、そして一番は皇太子についてだ。
   悩みが尽きないと考える限り、その皇太子はそうとう厄介者なのだろう。
   困った皇太子様だ、ほとほと嫌になる。 もう少し素直な奴ならまだ解決の糸口はあるのだが。

   エンディオも傍に居ながら、お前は何の為に皇太子の傍に居るんだよ。
   と、ここ最近会っていない同僚に文句の一つでも言ってやりたい。

  「だから気にしないのも解決の一つだよ。 アイツの事で悩んでたって解決のしようがないでしょう。」

   諭す様に言ったが、ムシュリカは浮かない顔だ。
   溜め息をしてムシュリカの近くへと寄る。


  「アンタさ、そんなにあの皇太子の事気になるの?」

   あの子は毎晩、皇太子の部屋の『新月の間』へ向かい『歌』を謳うらしい。
   詳しい理由は知らないが初めて行った日以来、皇太子に対して臆病になる事は少なくなったし、
   ムシュリカにとって得られた物があったのだと思い気にしてはいなかった。
   けど、 それがそもそもの間違いだった。

   人嫌いのアイツが『人間』と関わろうとしている事が異常なのだ。
   そしてムシュリカを切迫している。
   たった一人の、『人間』の小娘を求めているのだ。

  「アイツ。 アンタの事嫌っているのかもしれないのに。」

   『それは無い。』 自分で言っておいて心では否定した。
   認めたくない自分への言葉でもあったのかもしれない。

  「そう、かもしれない。 ・・・でも、それでも私は約束したから。」

   約束。 私の知らぬ間に、二人はそのような事もする様になった。
   どんな約束か聞きたかったけど、今の私は聞く勇気がわかない。


  「皇子様に御近づきになりたい。 私、そう思えるのサリネ。」

   少し、心に重しがかかった感じがした。
   ムシュリカが歩み寄ろうとしている。 あの『皇子』に、あの不穏分子に。
   あんな奴の傍にいたって辛い事が多いのに。 どうしてムシュリカ?

  「そ、う。 ・・・随分、前向きだね。」

   在り来たりな答え方しか出来なかった。 先ほどのムシュリカの言葉は衝撃が、まだあるからだ。

  「うん。 ・・・なんか御免ね。 サリネ、こういう話はやっぱり嫌だった?」

   私が『魔族嫌い』の事を気遣っての事らしい。 私は『皇子』のいる『魔族』が嫌いな訳で、別に気を使う必要ないのに。
   でも、その話に合わせる。

  「ううん、もう慣れた。 ・・・さすがに半年もいると、嫌でも居るしね。」

   あらゆる日常に『魔族』はいるのだ。 今更否定した所で、どうこう切り離せる物でもない。
   というよりアーサーで慣れたのだろう。


  「皇太子、名前何ていうんだっけ?」

   いいかげん、ムシュリカの悩みに応える事にする。
   少しホッとした様子でムシュリカは顔を出して私に言う。

  「クローディア様。 確か・・・そう仰ってたわ。」

   隣のムシュリカはおかしそうに笑った。
   笑うのも無理は無い。 女々しい奴だ。 何が悲しくて『皇子様』もそのような名前にしたのだろうか。
   『クローディア』という名は女の名前であるし、思い入れが強いところでどうにかなる訳でも無いだろうに。


  「御名のクローディアと言う名前が長いから、・・・だから縮めて『クロード』と呼んでいるんだわ。」

   『アイツらしいや。』と、私もアーサーを笑ってやった。
   アーサーも、奴もそれを知っているのだろうか。 だとしたら、やはり確信犯か。


  「アンタ、名前で呼びたいの?」

  「そう、かもしれない。 でも皇子様が御許しを下さるまで禁じられているから。」

   私は未だ名前で呼んでいないのが不思議なくらいだ。
   半年以上も共に過ごしているのに未だに『クローディア』も心を許していないらしい。
   どこまで頑固な男なのだ。

  「それなら仕方ないけど。 でもそれって建前でしょう?」

   権力がどうこうの何て、屁理屈だ。
   ムシュリカの本心はそんなものじゃない筈、呼びたいのだろう。
   でも―――、


  「サリネには、どうして分かるのかな。 ・・・・・・私、怖いんだ。」

   やはり、そうか。
   確かに世間一般で『皇太子』を呼び捨てにする召使いなんて聞いた事無いからな。
   そんな度胸のある者なんて思いつく限りでアーサーのバカ位だ。
   ムシュリカは自分の立場と言う物を理解しているから。
   確かに今、ムシュリカは全ての『捕虜』の中でかなり高い地位の場所に居る。
   それは皇太子『クローディア』の庇護下にあるから。
   アイツが居るからムシュリカは今の安定した生活があるのだ。(本当に安定しているのかは定かではないが)


  「どうしたら、いいのかな。」

   こんな時、私は何て言ってやれば良いのだろうか。
   『皇太子にこれ以上係るな。』は、仕事上、毎日顔を合わせているので解決にならない。
   『普通に呼べば良いじゃないか。』は、そこまで強い度胸を持ち合わせてない上実行できる筈も無い。
   眠気の所為か頭が回らない。

  「ムシュリカ。 さっきも言ったけど考えすぎるのも良い事じゃないよ。
   もう遅いし・・・ほらアンタも明日からその『皇子様』とご同行で『夏の御殿』へ行くんでしょ?」

  「・・・・・・うん。」


   ムシュリカは納得していないようだったけど、互いに疲れが眠気を強めた為直ぐに黙った。
   無理矢理話題を終わらせるようで悪いけど、あまり『クローディア』に踏み込んじゃいけないんだよ。
   特にアンタは、これ以上奴等の欲望の淵に足を突っ込んじゃいけない。
   その中心に居る、『クローディア』には特に。

   あの『クローディア』という者は、誰の味方にもなってくれないのだから。
   今それは伝えるべき事じゃないから、言わないでおくけどね。
   嘘ばかりついてゴメンね、ムシュリカ。


  「眠いのに付き合ってくれてありがとう。」

  「大した事じゃ、ないから・・・。」

   ムシュリカの両目がウトウトとしている。
   ああ、私もそろそろ限界らしい。


  「おやすみ、・・・サリネ。」

  「ああ、また明日・・・ムシュリカ。」

   それを言って、私はゆっくりと瞼を閉じた。
   私たちは手をつないで、睡魔に意識をゆだねた。



   *



   雲一つない空に、二つ三つの爆竹が打ち上げられた。
   その痛快な音に、観客達の反響も負けない位激しくなる。
   その真下に位置する場所は円形の建築物。
   入り組まれた階段、羅列する出入り口、通路は狭く吹く風は冷たい。
   中央に配置する広場は砂に覆われた広大な領域、煉瓦の壁は赤々としてそして風化しつつある。
   壁と言う壁中に歴代の剣闘士や猛獣、決闘の図など血湧き肉踊るレリーフが彫られ、その場所の意味を示していた。

   聖域『アロケナ闘技場』。

   太古から重宝されている故に、普段は人の足は踏み入れぬ場所だ。
   その寂れた場所である此処は、今や大勢の種族達が集まっている。
   建物の縁取られた場所に観客は座り、開会間近となった『闘戯大会』は既に賑わっている。
   どこもかしこも隙間など無く、去年以上の盛り上がりを成す事だろう。
   誰も彼もが中央の砂塵広がる場所に、此処から生まれる英雄達が登場するのを待ち続けているのだ。

   『死闘戯大会』、すなわち『決闘者ヘラクレス復活祭』。
   毎年、優勝者を『ヘラクレス』とし讃え崇めそして『権利』を与えるのだ。

   これを国民誰もが見れるのに意識が燃え上がらない訳が無い。
   『歓声』こそ全ての『審判』。 『闘気』こそ示す『魂』。
   これを示す場が『アロケナ闘技場』なのだ。

   太陽も高らかになった正午、毎年恒例の主催者が入場者全員に宣言した。


  [ 皆さん! 今年も遠方から近場まで、御足労いただきありがとう御座います!
    これより皇帝陛下より大会のご祝辞と開会の宣言を賜りいたしましょう! ]

   例によってアーサーである。
   帝国民に顔の広いアーサーはここでも彼らの人気者だ。

   アーサーの背後から登場するは帝国の支配者、皇帝リベリオンである。
   彼の備えてる強面の鬼の仮面は、彼の権威をより強く表している様だ。
   高い場所からの観客席は実に絶景で、クローディアの隣で控えているムシュリカはその人で溢れかえった様に目を開くばかりだ。
   彼と彼女の周りには誰もいない。 人嫌いの彼を気遣ってか、アーサーがわざわざ手配したのである。
   そんな彼は大祝祭の闘戯大会に興味を示さずで読書を楽しんでいるのだが。

   皇帝が段上に立つ。 彼は両腕を広げて高らかに告げた。


  [我らは死を恐れぬ覇軍、世界創造の礎『ヴェーダルドの槌』。
   我らは世を統べし、大地を唸らし。 皆の歓声は聖域から轟く事となろう。
   血を滾らし闘志を焦がす猛獣達と、今此処に集いし者達全てに宣言する。

   生まれし英雄に華を、散り逝く者達に灯し火を、猛り狂う魂を我に示すが良い!]


   皇帝の声は、会場中に響き渡った。 会場中から皇帝を讃える嵐が高まる。
   彼の名を繰り返す会場に、皇帝の響き渡る声に背筋を震わすとムシュリカは一粒の汗を流した。
   高台に居る彼は、世で最も偉大な権力を保持している唯一の者だ。 普通の市民が近づける人物ではない。
   その権力者の近くに居る事に、改めて自分の位置が恐ろしい場所にあるのだと再び恐怖するのだ。

   ただ、彼の演説は中身が無い。
   それは国民を惹く為に、何の躊躇いも無く『殺意』を持てる様に。
   壊し奪い、他人を凌駕する事しか考えの無い、国民を駒としか見ない強欲者。

   皇帝は確かに恐ろしい。 だが、それはクローディアとは決定的に違う所があった。
   ムシュリカは、皇帝が嫌いだった。 恐ろしさ以上に、それは勝った。



  [全ての闘士達、剣を持ち己が怨恨を燃やせよ! 迷いは無い!お前達の闘気を遮る者は居ない!
   我に剣を捧げよ! 我が帝国に剣を掲げよ!

   ヴェーダルドに、帝国に、栄光あれ!!]



   闘気をあげる演説は会場の者達全てを巻き込んで叫びを誘った。
   戦争へ向かうかのような高らかな唸り声は、剣闘士達全員から発せられたものだった。

   今日より三日間、ここは殺意を許せる唯一の場となる。
   皇帝はそれを許可する宣言を此処でしてしまったのだ。
   ムシュリカはその様子を悲しそうな不安そうな目でそれを眺めてた。

   皇帝は高らかな歓声に満足すると王座の方へと戻った。


  「・・・素晴らしい、演説でしたね。」

  「嘘はいい。」

   クローディアへ何か話さなければならなかったムシュリカは、思わず嘘を言ったが直ぐに見破られた。
   当然、嘘とばれるのを承知だったのだ。 演説を聴いてクローディアが何を思っているのか気になったから。
   だが取りあえず嘘については謝らなければならない。 一言「申し訳ございません。」と告げ、彼に尋ねた。

  「陛下の御宣言、・・・いつもあのような御様子なのですか?」

   悪いと言っている訳ではないのだ。 ただ、嫌いだったから。
   皇帝だって『人間』や『獣人』を見下しているのだから。

  「毎年変わらん。つまらん遊戯に飽きた芝居だ。 ここに居るだけで反吐が出る。」

   淡々と述べた彼の感想だ。
   一刻も早く此処から立ち去りたいらしく、どうやら彼は不機嫌に頭が来ているようだ。
   それは、ムシュリカだって一緒だ。

  「皇子様は、皇帝陛下と違って行事が御嫌いなのですね。」

   『魔族』はみんな一緒だと『捕虜』であった幼い頃から勘違いしていた。
   彼ら全員が戦争の本能を持っているのだと。
   国だって道具の様にしか思っていないのだと。
   今この場に居る時、それは考えなしに至った脆弱なものだったとつくづく思うのだが。

  「人の生き死になど、他人にとってはどうでも良い事を余興にする『奴』が気に食わん。
   死人を無駄に増やす所で、国民の意思が安定してゆくとは思えん。」

   少なくとも彼は、彼なりに国を案じている。 だからクローディアを信じているのだ。
   それよりもムシュリカは彼の発した『奴』の発言が引っかかった。


  「陛下を、ご自身の御父上に『奴』などと発するのは―――、」

   それは一般的にも言ってはならない事ではないのか?
   少なくとも生んでくれた恩も、名を授かった恩もあるのだろうに。
   それは冷たすぎる。


  「奴は俺の父親ではない。」

  「そう仰るのも・・・、」

  「そう言う意味ではない。 そもそも本当の父親ではないのだ。」

   くどく言ってくるムシュリカが鬱陶しいのか、クローディアは驚くべきことを言った。
   ピタとムシュリカの言葉と動きが止まった。
   目を開いて、クローディアをみる。

  「養子縁組だ。 ・・・納得したか?」

  「・・・そう、だったのですか。」

   ムシュリカが言葉を返さなくなると、クローディアは再び本へと心を移した。
   だんだんと彼の言っていた事を実感して、悪い事を聞いてしまった気分になった。
   確かに養子は市民の中にもあるし、血族争いの激しい皇族では当然の事なのであろう。
   何せ皇帝は妃は居ない上に妾の話も無いのだ。
   普通では信じられない話であるのだが、養子を取るのならと言う事なら皆頷けるのだろう。

   皇帝が嫌いと言うのもあながち納得がいく。
   クローディアはこんな行事でもない限り、彼に会う事は無いのだ。
   ムシュリカはいつも彼の傍に居たから良く分かる。

   今の一度だって、ムシュリカは皇帝と面会が叶った事が無いのだから。
   クローディアは絶対に彼に会いたくないし、彼が大嫌いなのだ。


  [ それでは今より、第283回『ヘラクレス祭』を開会する! ]


   アーサーの宣言に、出場者は剣を掲げて闘気を轟かせた。
   会場の空に、いくつかの煙弾と花火が打ち上げられた。

   こうして闘戯大会は幕を開けたのだ。





   ・・・―――

   ――――――

   ―――――――――――――

   会場の中央では刃と刃の擦り合いとぶつかり合いが鳴り響く。
   鋼鉄の鎧を纏った者達が剣を振りかざして戦いあっているのだ。

   ―――――[ 大鎌のホロメス選手、七聖剣のマルタ選手に斬撃を繰り返します!! ]


   その戦いっぷりに会場は興奮して拳を高々と、選手に投げる声援も激しいものだ。
   何戦かが過ぎてアロケナの広場は血と汗で染まりつつある。
   この後に決勝があり、祭りもたけなわへと移るであろう。
   クローディアに代わり観戦していたムシュリカは、ふっと溜め息をつく。
   声を嗄して声援を送る気はないし、祭りに乗じて気分も上昇するという気も起こらないのだ。
   どうもクローディアと同じような気分に陥る。


  [勝者『七聖剣のマルタ』!!]

   ついに決着は付き、大剣使いを戦闘不能まで攻め立てた剣士が華を飾った。
   両選手に会場の観戦者達は激励を贈り、二人は会場を後にした。
   選手のいない会場に、係員の者達が大勢出てきて血に染まった大地を砂をかけて隠した。
   こうしてこの闘技場は剣闘士の血と砂の層を重ねてゆくのだ。
   血を重ね続ける場所で、彼らは戦いを誓い続けるのである。


  「次で決勝ですね。」

   手持ちの予定表を見ながらムシュリカは言った。 午前にて人間同士の戦闘は終わる。
   次いでハヌマ達の決闘となり、今日の公演は終わりとなる。
   さすがに一日中席に座り観戦するのは疲れが生じる。
   それが後三日も続くと考えると、かなり長い時間と感じるのだ。

  「ああ、その後に食事だったな。」

   そう、小腹も空いてきたのだ。
   ムシュリカもクローディアみたく本でも読んで集中したい所だが、生憎この騒がしさの中集中できそうも無い。
   アーサーの傍に居るサリネも、彼が皇帝から離れない限りは会う事は叶いそうも無い。
   どうにか、抜け出したい気分になった。
   無意識に身体をソワソワさせていたのに気がついたのか、クローディアは問いかけた。

  「気分直しに出かけていくか?」

  「えっ、いえ、・・・お昼まで此処に居ます。」

   本心を見抜かれた事に気がついたムシュリカは否定した。
   クローディアに気を使われた事に気がついたのだ。 平静さを保とうとするのが明らかすぎる。
   それを言えば、クローディアは言葉を変えてムシュリカに告げた。

  「それなら茶を持って来い。 下の階の小間使いが用意している筈だ。」

   命令と言う形にすれば、ムシュリカは出歩く事が出来る。
   クローディアからそう言われれば動くしか無いのだから。
   彼も気がついているのだ。 ムシュリカが誰より他人を気にかけ、遠慮が強いと言う事が。

  「分かりました。 それでは行って参ります。」

   少し微笑むと、クローディアの隣から立ち去った。
   彼の気遣いに感謝しつつ、階段を下っていった。
   クローディアが彼女の笑顔により安心した事も知らずに。



  「ここ、どこなのかな?」

   入り組まれた通路を訳も分からず進んだ結果、ムシュリカはすっかり迷子になってしまったのだ。
   宮殿の仕組みでさえ理解するのに時間を要した彼女は、ここで迷わない筈無かった。
   やはり彼の傍にいればよかったと、此処へ来て後悔した。

  「どうしよう・・・。」

   無闇に城以外の者に話しかけるのは危険な事だと言われた事があった。
   誰が国に仇なす不穏分子かどうか分からないのだから。
   人は確かに居る事にいるが、誰が城仕えしている者か分からない。

   そして何より、皇太子付きが道に迷ったなど知られれば笑い者である。
   クローディアに何と言われるだろうか。

   そう悶々と考えていると、近くに居た一人の者にぶつかった。
   前に居た者が巨体な為、ムシュリカは跳ね飛ばされ尻餅をついた。

  「あ、すみません・・・。 余所見してて・・・。」

   立ち上がり服の汚れを手で払うと、前に居た者に直ぐに謝った。
   前に居た者は選手であろう。 重厚な鎧と片手で持つ事がかなわない剣を持ち合わせているのだから。
   剣士は振り向いた。


  「アンタはっ・・・!!」

   ムシュリカを知っている人物だったらしい。 その低くもハッキリとした声にムシュリカも顔を上げた。

  「貴方は、・・・エンディオさん?」

   お互い良く知る人物だったのだ。



   *



  「口に合わないのか?」

   皇子様がそう言った。
   皇子様の皿の食事と自分の分を見比べて、私の食事が進んでいないことに気がついた。

  「いえ・・・とても美味しいです。」

   食事が進まない自分を叱咤して、無理やり口に押し込んでいく。
   皇子様は怪訝そうに私を見て溜め息をこぼした。
   彼はカチャンとナイフとフォークを皿に乗せた。

  「午後は日が沈むまである。 『人間』の、特にお前は食っておくべきだと思うが。」

   心配をしてくれている。 嬉しくはあるが、されるようでは付き人失格ではないか。
   私は首が落ちるくらい『大丈夫です。』と皇子様に納得させた。


  「いつまで隠し立てしているつもりだ?」

   闘技中の帰りが遅かったあたりから皇子様は何かしら私に話しかけてくれる。
   そこまで私の変化は表に出やすいのだろうか。
   強い眼力が私に強調する。

  「・・・そんな大した事ではないのです。」

   皇子様に嘘はつけない事は先刻承知だ。
   私は正直に言うことにした。


  「先程、エンディオ近衛隊長とお会いしました。」

   遠征中の彼が何故こんな場所にいるのか。
   彼に尋ねようと思ったけど、彼は急いで私を皇子様の元へ連れて行って下さってそれ以降見かけない。

   皇子様も私に何か隠している。 それは分かるのだけど私に何も話してくださらないのが少し寂しい。



   昼食時である。
   アロケナの風は暑さが名残るのに関わらず涼しくて、程よく私達に当たる。

  「奴と会った? 何か言っていたか?」

   皇子様は珍しく聞いてきた。

  「いいえ。 迷った私を皇子様の元まで連れて行って下さっただけで。」

   会話を交わす事はほとんど無かった。
   お礼を言う前に急ぐようにして彼は立ち去っていったのだから。

  「・・・そうか。」

   意味深に皇子様は私に一言そう言って先に食事を終わらせた。
 

  「早くしろ。 アーサー達が来るぞ。」

   それを見る度私は、食事の手をより一層急がした。
   エンディオさんの事が気になるけど優先すべき事に専念しなければならない。


   皇子様もアーサーさんもエンディオさんも、城の中では怪しいと噂される。
   特に皇子様は皇帝陛下に恨まれているだの言いなりだの、黒い話ばかりが流れる。
   そんな些事は皇子様の耳に入れたくないから、聞かれるまで言わないのだけれど。

   そんな中その三人は深く信頼しあっている。 私にはそう見える。
   羨ましい。 私は皇太子様とアーサーさんを見ていつも思うのだ。


   今は、私と皇子様の二人きり。
   いつもはサリネと共にいる筈だが皇子様から誘われて、二人で食事をすることにしたのだ。
   皇子様と話せる機会が増えたと半ば喜んでいたが、今はエンディオさんの心配でいっぱいだった。

   アーサーさんがサリネと共に来るのを待ちながら、私達は静かな食事をした。
   皇子様のお話し相手も碌にせずに、私は何をやっているのだろうと再度自分を叱咤した。

   サリネが皇子様と会う。
   二人は初対面になるのだろう。 (おそらく皇子様は、その時は仮面を掛けるのだろうが。)
   一体どんな様子になるのだろうと多少期待している自分がいる。
   それも含め、早くサリネに会いたいという気持ちが高まった。


  「よ、お二人さん。 良い雰囲気だった?」

   その時に聞こえたアーサーさんの声。
   この雰囲気を打開してくれる貴方の声は本当に助かる。
   その背後に顰めた顔をしたサリネを引き連れて。

  「何の雰囲気だ。 ふざけるのも大概にしろ。」

   皇子様はいつの間にか仮面をつけていて、アーサーさんを咎めた。
   アーサーさんは「手厳しいなぁ。」と一言いうとサリネを皇子様の前へ押した。

  「ほら、この子が例に言った『舞姫』。 中々の美人だろ?」

   皇子様の前へ出されたサリネは至極不機嫌な顔をして皇子様に言った。

  「・・・サリネ・エルト。 嫌いなものは『魔族』や『皇子』とか。」

   出会い頭に何て事を言うのだ。
   淡々と述べたサリネの言葉に一瞬固まってしまったけど、私は直ぐに我に返って皇子様を見た。
   うんともすんとも言わず、サリネをじっと見ているようだった。 (仮面を被っているので確証はないが)

  「ああ、お前に似合いの不細工だな。」

   と、彼女の言った言葉に気を悪くするでも無く、元あった席に戻って本を拾った。
   今度は固まったのはアーサーさんである。 無理も無い。
   サリネはと言うと、舌打をすれば適当にあった椅子を持って私の席の隣に置いたのだった。

  「サリネ・・・君もさ―――、」

   困ったようにアーサーさんはサリネに言うが、それで聞くあの娘ではない。
   サリネは無視して会場を見渡していた。

  「良い景色だ。 大層なご身分だな、『皇子様』?」

   嫌味であろうか。 残念ながら彼はそう言うもので気を悪くする訳ない。
   だがサリネの態度もどうだろう。
   まるで皇子様を知っているかの話し振りだ。(皇子様の事を話しはしたけれど。)
   とてもよく知っているかのような、知り合いのような、そんな感じだった。

   皇子様の態度を承知か、サリネは再度皇子様に尋ねた。

  「一番苦労をしないで引きこもってばっかりのお前には、この観客達の理解も出来ないだろう。
   何せお前は誰かが居なければ何処にも出る事は叶わない上、人との関わりさえ禁じられているからな。」

   遂に『お前』呼ばわりである。
   サリネは目上に対して言ってはならない事を言い続けているのに、私は止めようとしなかった。

  「一国の皇子に対して貴様も随分な態度だな。 不細工は顔だけでなく性格もか。」

   皇子様が軽くあしらっている中、私は気付いてしまった。
   サリネは皇子様を知っている。
   脳裏によぎった考えは確信に至った。
   私が混乱している中、アーサーさんが焦っているのに気付いていなかった。

  「そんな立場に居た所でお前に何が出来る? 今更何を望むんだ。」

  「貴様には関係なかろう。 『人間』のお前にはな。」

   皇子様も棘のある、響きのある言い方になった。 ああ、私も早く止めに入れば良いのに。

   何故突然こんな事になるのだろうと、他人事のように思う中疑問が一つ。
   どうしてサリネは皇子様を責めるような言い方をするのだろう。
   確かに彼は、彼女の嫌いな魔族の代表ともとれる人物だが。
   初対面でもサリネは謙虚な所はある筈だ。 それが今日の今になってどうして。

  「関係あるね。 アンタの言う『望み』の為に多くの奴らが動くはめになっているんだ。 いい迷惑なんだよ。」

   サリネは、知らない。
   本当の皇子様が、誰より望みに遠い場所に居る事に。
   知ろうとしない。
   皇子様が人間を知りたいと思いはじめている事に。
   サリネは返事をしない皇子様に続けて言う。

  「何でアンタが『其処』にいるんだ? とっとと、くたばれば良いのにさ。」

   そんな事言わないで。
   皇子様だって、きっと傷つく。 消えてしまえと言われたら、きっと寂しく思うだろうに。
   そんな事まで、皇子様に知って欲しくない。
   私は内から湧き上がる言葉を留めようと必死で抑えていた。
   アーサーさん、貴方も見ていないで二人を止めて下さい、どうか。

  「死ぬに死ねない身体だからな。 私はお前の嫌いな『魔族』で、その上『皇族』だ。」

  「『私』?笑わせるな。 自分自身でさえ欺く様になるとは無様になった。」

   仮面の下は、本当に笑っているのだろうか。
   それは、嘲笑に近いものがある。
   皇子様、貴方までそんなことを言わないで下さい。 私だって、聞いているのに。

   サリネは、言ってしまった。


  「皆が言っているさ。 『魔族』は化け物だって―――」

  「・・・サリネっ!!」

   やっとの事でアーサーさんがサリネの肩を掴んだ時、その前に私は叫んだ。
   大声だった。 この高台いっぱいに響き渡った事だろう。
   サリネは言葉を止めて、私の方を向いた。
   アーサーさんも私の声に驚いたのか、目を開いて呆気に私を見ていた。

  「これ以上、皇子様に・・・・・・そんな事、言うのを止めて・・・。」

   サリネと皇子様に何があるのかは分からない。 どこまでの知り合いなのか、何処で知り合ったかも。
   それでも、何かあったのは明白だ。

   サリネが、『魔族』が嫌いと言うのも分かる。 私だって嫌いだったもの。
   でも皇子様やアーサーさんが居る前で、そう言うことを言って欲しくなかった。
   サリネは人の痛みを分かってくれる子だって思いたいから。
   私の言葉に、何も言わずに皇子様は顔を向けた。
   彼は、どんな顔をしているのだろうか。

  「皇子様を、責めないで・・・。」

   皇子様の何を知って言っているのだろうか。
   知りもしないで、理解しきれている訳も無いのに口から勝手に言葉が溢れた。
   何だか限界だった。 堪えられなかった。
   皇子様を苦しめるような言葉を聞きたくなかった。

   今度こそ、サリネは驚いてた。 アーサーさんもだ。
   アーサーさんは宥めるようにサリネの肩を叩いて、我に返ったサリネは私に言った。

  「ごめんなさいムシュリカ・・・。 言い過ぎた。」

   本当に申し訳なさそうにサリネは頭を下げた。
   だが、謝る対象は私ではない。

  「私じゃなくて、皇子様でしょう・・・。」

   それを言うと彼女は渋った顔になり、皇子様には舌打するだけで謝りはしなかった。
   彼は鼻で返事をして、どうにか二人の修羅場を収拾する事が出来た。
   皇子様は暫く私を見ていると、今度は闘技場の方へと目を移した。

   私が胸を撫で下ろしていると、私の方を誰かが軽く叩いた。
   アーサーさんだ。 その顔はニッコリ笑っている。
   二人の諍いを止めなかった彼に対して私は少し憤った気持ちもあったが、その顔を見ると私も安心した。



   耳を澄ませば、再び観客の歓声が聞こえた。
   同時に管楽器の高らかな音も同時にある。
   決闘の合間に見世物が始まるらしい。
   私は皇子様の隣の席に座り、『見世物』を見て気を紛らす事にした。
   まず入場して来たのが、多くの鎖に繋がれた龍獣である。
   重量も中々ありそうで、多くの兵士達が龍獣を引きずって会場に晒した。

   刺々しい紅の鱗に針のように鋭い鬣。
   爪は鎌のように研がれてあり頭部の角や牙は凶悪で見る者に恐ろしさを強調させた。
   こんな見目凶暴そうな龍が出てくるなら対戦の他無い。
   この龍獣相手に無謀と思える挑戦者は一体誰なのだろう。
   観客の誰もがもう一方の出入り口の挑戦者を待つ。


  「あの色、火山口に住む希少種の龍か? 数も少ないし人前に出る事も無いのに。」

   サリネが素朴にアーサーさんに聞いた。
   彼はその質問に直ぐに答えた。

  「長い間、人への危害を加えていた様だからね。
   帝国の兵士だって何人も喰われているし、放置も出来ないからこの間捕らえてきたらしい・・・。」

  「ああ、皇帝がエンディオに依頼したやつか。」

   彼らに顔を向けた。
   私が知らない間に彼はそんな危険な任務に赴いていた事を初めて知ったから。
   でも無事な彼を思い出して、少しだけ安心した。

   会場中の視線が其処に集まる。

   挑戦者は日の下に姿を現した。
   観客の歓声は更に高まっていく。
   あの巨体に、大振りの大剣、分厚そうな盾を持つ者は。
   さも魔族の二人は当たり前と言うように見ていたが、私やサリネは思わず椅子から立ち上がっていた。


  [ 試合、始め!! ]

   
   考えをまとめている間に試合は始まってしまった。
   龍の鎖が放たれる。
   シャラリと千切れた鎖は、雨のように広場に散らばった。

   自由になった火炎龍は怒りを露わにし、目の前に居る剣闘士に向かっていった。
   龍の爪が彼へと降り掛かる。 が、彼は手持ちの剣でそれを食い止め、地面をバネにそれを押し返した。
   龍の攻撃はまだ止まない。 今度は突進して来たのだ。
   直撃すれば大怪我は免れないだろう。龍の鱗は並の刃より丈夫だ。

   すると彼は地を蹴ってヒラリとかわし、無防備になった龍の背を斬り付ける。
   その金切り声に似た悲鳴に、私は耳を塞ぐ。
   龍は血が吹き出る中、必死で抵抗して、剣闘士を振り払った。
   彼は砂の地面に叩き付けられた。

   歓声が、彼へ降り注ぐ。

   その声に応えるように彼は立ち上がり、再び龍へ剣を向けた。
   龍は黄色い眼で彼を睨みつけて、すうと息を吸い込んだ。
   その様子を彼は見ると、さっと盾を身体の前へ出す。


   その瞬間龍の口から焼き付くさんとした青々とした炎が吹き出て、彼を追いつめる。
   私は、焦る。
   盾一つで、こんな状況を乗り切られるのか。

   龍の炎が彼一点に向かう中、彼は盾を前にして突き進んだ。
   鼓動が高鳴る。
   龍は吹き出す炎に集中した所為か向かってくる彼に気付いていない。

   そして彼はとうとう龍の懐に来て、心臓に向かって刃を突き刺した。
   龍の炎は徐々に収まっていくと止まると同時に地に倒れた。


  「さすが、連続優勝した実力者だけあるな。」

   皇子様は無感動に彼の功績を述べ眺めていた。


   観戦者の喝采が、剣闘士一人に向かう。
   その強さに『万歳』と『英雄』の声が贈られるのが私にも聞こえた。


  「何が『万歳』だ、むしの善い・・・。 命を奪えだの保護しろだの・・・。」

   皇子様はその様子に嫌気がさしているようであって、溜め息をして背にもたれ掛かった。
   同じように私も空しく思う。 正直、後味が悪い。
   アーサーさんは、顔を険しくして会場の様子を見ていた。
   私の場合、少なくとも会場の中央に佇む、巨体の剣闘士に。


  [それでは皆様、『砂塵の赤獅子』エンディオ・ヘラクレトス殿に多大な拍手を共に、ご退場を御送り致しましょう。]


   その英雄ともとれる称号と共に、彼は退場していく。
   彼が出場している。
   その事実が私を悩ませてる。
   だとしたら此所で彼と出会うのも合点がいくが、理由が検討つかない。
   とらえた龍獣を、彼自身が始末を付ける理由など無い。

   サリネと皇子様の事を忘れて、ひたすらエンディオさんに意味を求めた。
   どうして、どうして、 貴方がこんな所に出ているの?


   私は彼が立ち止まって私達の居る高台の方へ視線を移しているのが分かった。
   暫く見ていたけど、振り切るように彼は目を外して前へと進んでいった。
   その視線は遠くからだったから良く分からなかったけど、何かを訴えているそんな気がした。
   エンディオさんの背中が甚く寂しいものに見えたのは気のせい?




   了 (後編へ続く)