ラクシュミ 〜221譜の讃歌〜
『序章・絶対禁忌』:後 Lizza
*
退場していくエンディオを見送ると、ムシュリカは糸が切れた様に椅子に座り込んだ。
エンディオが大怪我無く帰って来れる事に安心したのだろう。
ムシュリカの憔悴した顔を見ると、その背中をサリネは撫で落ち着かせて、キッとアーサーを睨みつけた。
「何故こんな悪趣味遊戯をムシュリカに見せる・・・。」
怒りが含まれた震えた声は、アーサーに強い圧力をかけていた。
エンディオの出場にサリネも予想外だった上、知り合いが生死を賭けた戦いに挑むなどムシュリカが不安になるに決まっている。
彼女の露になった怒りに怯んで、アーサーは早く答えた。
「いや、僕の所為じゃないよっ! 何時だって彼は自ら志願して・・・、」
志願。
その言葉がムシュリカの震えを止まらせた。 彼自身の願いだと言う。
彼も闘気に魅入られて、殺戮を愉快と思っている事と言う事だからだ。
「アーサーさん・・・それは、本当なのですか? エンディオ近衛隊長が、出る必要も無いこの大会に・・・。」
彼は『人間』でも『獣人』でもない。 漆黒の黒髪を持つ『魔族』である。
志願は確かに出場者全てに割り当てられている権利であるが、並の剣士では歯が立たない『国一番の剣士』の彼に必要の無い事だろう。
強さも何も彼は、皇太子の下に仕えている事が『最強』と言う称号を既に証明しているではないか。
「確かに・・・そう言う事ではあるんだけどね。」
妙にはぐらかす。 隠すべき事でもあるのだろうか。
アーサーは言い難そうに、ムシュリカとサリネから顔を反らして言葉を止めた。
なかなか答えを出さないアーサーに痺れを切らしたサリネは詰め寄る。
「どういう事だ? ・・・ムシュリカにこんなもの見せて、楽しめるとでも思っているのか?」
サリネはムシュリカを優先する。
それは嬉しい事であるけども、同時に自身は二の次と考えているサリネに同意出来ない。
ムシュリカ自身と、似ているからだ。
「伝統なんだし仕方ないだろ! 彼がこのアロケナの伝説の英雄の末裔でもあるんだしっ!!」
「それが精一杯の言い訳か? 大した理由だな。」
アーサーの言い分に鼻で笑ったのはクローディアであった。
全員が『皇太子』に注目する。
「伝統の者なら尚更出なければならない?違うだろ。 奴の指名ではないのか?」
クローディアは、一つの方向に向かって指差す。
指先の向こう側は皇帝の玉座のある高台。
「そう言う事ですか・・・おーじ様。」
「いつまでも古臭いものに取り憑かれるのも、ほとほと見苦しいものだ。
奴も何時までもあの玉座に永久に居座れると思いがちの様だ。」
嫌味ったらしく言うサリネにびくともせず、クローディアは淡々と貶した。
ふと今まで読んでいた本をパタンと閉じた。読み終わってはいない様だ。
「どうかなさいました・・・? お茶を御持ちしましょうか?」
様子の違うクローディアにムシュリカは静かに尋ねた。
また茶でも飲みたくなったからであろうかと、脳裏に浮かんだのだ。
「いや、部屋に戻る。 つまらん物はつまらん。 後は勝手に見回っていればどうだ?」
それを言うと、クローディアは本を片手にスタスタと階段を下りていく。
アーサーがそれを見て彼の前に立ちはだかり、足止めをした。
クローディアは顔を顰めた。
「何だ? 俺を引き止めた所で、真面目に見る気など毛頭無いぞ?」
「そう言ってるんじゃない! 一人で部屋向かう気か、お前は!?」
クローディアの突発的な言葉に半ば放心していたムシュリカは自らの役目を思い出した。
確かに、彼一人で帰らせる訳にはいかない。
部屋まで送るのが道義である。
「あの、私も御一緒に・・・。」
「いらん。 こいつだけで十分だ。」
ムシュリカの呼び止めにも聞かず、クローディアはアーサーの首を掴んでさっさと向かって行った。
彼が下る中、アーサーの悲鳴が段々と遠くなって行くのが分かった。
その高台に残されたのは、ムシュリカとサリネだけになった。
無言に、なる。
当たり前ではあるが、先程のエンディオの出場が未だ気にかかっているからである。
サリネは詳しい事情を知っている様だが、無理に聞く事は彼女の気分を更に害さないかと思った。
それに何故クローディアは突然『帰る』など言い出したのだろうか。
彼の突然の行動にも不可解なものはあるし、整理しようとすれば頭の中がごちゃごちゃになる。
ムシュリカはサリネと闘技場を交互に見て、話を切り出せないでいた。
それに気付いたサリネは「私とエンディオの事、話してなかったね。」と、ムシュリカに言って話し始めた。
「エンディオとは、私が初めて『夜会』に出席した時以来の知り合いだ。
特に親交はないけど、そこそこ仕事上で偶に会ったりしている。
空いてる時は皇子の話を聞かせてもらったり、身の上話も結構聞いたりした。」
『始めは突っぱねて帰らしたんだけどね。』と付け足した。
初対面の人間でさえサリネは警戒するのに、それが『魔族』の近衛隊長である。
大嫌いの条件を満たしている者と、親しくなろうと普通は思わない。
エンディオも彼女と談話する程親交を深めるのに苦労した事だろうと、苦笑した。
「確かに『魔族』ではあるんだが、アイツの場合事情が複雑らしいんだ。
・・・話を聞いて信じるのに、何年も掛かったしね。
まあ、そこそこ話すようになった頃、エンディオ通してあの『おーじ様』と面会したんだ。」
かなり、嫌そうな顔である。
ああ、やはり知り合っていたのだ二人は。
サリネは闘技場を見渡しながら話を続けた。
「そこまで皇子の奴を知っている訳じゃないよ。 ムシュリカが言うまで本当に何にも知らなかったんだ。」
ムシュリカの顔を伺ってサリネは苦笑した。
何か、嫌な顔でもしていただろうか。
自分の顔にそっと触れてからムシュリカはサリネを見た。
サリネは顔を曇らせている。
それもクローディア事が出た途端に。
寂しそうで悲しそうで、小さく言った。
「否定する癖に『強欲』なんだ。 嫌いなんだ・・・どうしても嫌いで仕様が無い。」
否定は、ムシュリカもされた。
傷つきはしたし苦しく思う時期だってあった。
でもクローディアと居て楽しいと思える事も同じ位ある。
サリネはどうしたのだろうか。
いつもの彼女のような覇気が無い。
一体クローディアに何を言われたのだろうかと、浮かない顔を見る度ムシュリカは思うのだ。
「酷い事、言われたの?」
思わず聞いてしまった。
彼女に断り無く聞くのは不安だったけど、気になって仕方無い。
サリネは、力なく笑って何も言わなかった。
「皇子様は確かに御言葉が厳しい人だけど、だからそこ・・・知ろうとしているのよ。」
そう言う事しか、ムシュリカは言えない。
彼女がクローディアを嫌いだと言う事に、文句をつけたり諭したりするのは無駄なのだから。
だからせめてクローディアが、全てを否定する冷たい者だと言う事は否定したかったのだ。
それが彼にとってもサリネにとっても、余計なお節介である事を承知で。
「だから私も、あの人の力に・・・。」
『力になりたい』と、言いたかった。
クローディアについて話したい事はたくさんある。
だがその前にサリネは席を立って、出口の階段へと向かった。
ムシュリカは、目を開いた。
背中姿のサリネは言ったのだ。
「『皇太子付き』のムシュリカには、・・・分からないよ。」
ムシュリカはハッとして、口元を抑えた。
サリネの口から、その言葉が出てくるとは思わなかったから。
心が震えている。サリネは振り返らない。
「ゴメン・・・私、頭冷やしてくる。」
逃げるようにサリネは階段を駆け下りて行った。
それを見送る事しか、ムシュリカには出来なかった。
私は何を言っているのだろう。
サリネの気も知らずにクローディアばかり肯定して、この場に居る辛さを思いやる事もせずに。
更に彼女を辛い目に遭わせてしまったのではないのだろうか。
「サリネ、ご免なさい・・・。」
広すぎる空間の中、一人自己嫌悪に嘖まれる事となった。
サリネに許しを請おうと思いながら。
*
なぜ俺はあの場から立ち去ったのだろうか。
あの娘がどう悩もうと迷おうと、俺には関係ないだろう。
傍に置くようになってからと言うものの、正直このような行動に出た自分自身に一番驚きを隠せない。
あの娘の事を思ってなのか、目の前の知識の塊にも集中が出来なくなっていた。
「どうしたんですかぁ皇太子殿下? もう御本に飽きてしまわれたのですかぁ?」
不貞腐れて愚痴を吐くお前も少しは分かれ。と言うより俺を巻き込むな。
文句の一つでも吐く余裕があるなら、下らん国にでも従事してろ馬鹿者。
「鬼皇子。そんなんだから君はいつまで経っても人間不信のままなのさ。 こんな暗ぁい部屋にいる事も含めてね。」
皇子が誰も彼も信用して良いと思っているのか。
早々に他人など信用するのだから、期待を大きく裏切られるのだ。
お前も職業柄、多いのではないか?
「信用できる者はなるべく多いほうが良いだろう? その方が安心だし、頼る余裕だって出来るんだよ。」
頼るなど、俺には無縁な話題だな。
誰の力も借りずに生きていく事など確かに不可能だが、俺達は『魔族』だ。
道を阻む者がいれば切り捨て、信頼を逆手にのし上がっていく。 それが上層階級者の存在意義と掟。 世の理だ。
「そんな君だって、ムシュリカちゃんに頼り切っているじゃないか。」
なぜ今その娘の話題を持ち出すのだ。
今一番避けたい者の名を奴は言った。
「『鎮魂歌』を彼女に歌わせているんだろ? 君の部屋から偶に彼女の歌が聞こえるから皆知っているさ。」
知っているなら言うな。
俺にとってはその事さえ些末事であるのだから、別に他人に知られた所でどうと言う訳ではない。
とは言え、時として思い出す。
下らないと思う事でも、あいつの頬から流れる涙の雫を。
其れに思わず触れたくなる衝動と、『鎮魂歌』の忘れがたき旋律を。
アーサーはその事に食って掛かってきた。
「君には歌えない『詩』を彼女に歌わせているのだろ? 君だって他人に頼っているじゃないか。」
それはあの娘との契約だからだ。 それを条件に俺は娘を傍に置く。
必要な事だから部下に仕事を任せるのは、おかしい事なのか?
それがあの娘の本来の仕えである故、その事に疑問を持つ必要などあるのか?
「彼女に歌わせているのが、僕には異常事態でね。
なぜ彼女に歌わせるんだ? 彼女以外にも『歌姫』などごまんといただろうに。」
あの娘の能力が偶然目に入っただけの事。
「そうか? その割には随分と箱入りにしているじゃないか。」
あいつは『皇太子付き』だ。 俺の傍にいるのが当たり前だろう。
それ以上でもそれ以下でもない。
「いいや、違うねクロード。 その証拠にムシュリカちゃんを皇帝に会わせてもいない。」
わざわざあの男に会わせる必要も無いからだ。 会わせた所で―――、
「いい加減認めたらどうだ? 君は、ムシュリカちゃんに一定の領域を許しているのだろ?」
どうした、何が言いたい。
「言いたいも何も・・・僕は人間と共にいる時間が多いから段々分かってくるのさ。
恐らく『感情』と言うものの言葉の意味をね。」
また下らん事を。
人間やハヌマのような『感情』など俺たちに不要だと何度言わせる。
「クロード。 君は確かに彼女を傍に置きたい存在として認識し、切迫している。
そして何度言おうとも・・・ムシュリカちゃんと重ねてるんじゃないか。
それこそ『役目』とか『契約』だからじゃなくて、ただ純粋に・・・・。」
俺が、あの娘に何を許していると言うのだ。
誰に気を配るつもりも無いし、そいつの深い事情など尚更だ。
何をしようとそいつの勝手だ。
「そうだな、だが 君は僕以上にムシュリカちゃんを知っている。
時々君の傍に居るとそんな感じがするんだ。」
アイツを知っている?
俺がアイツの何を知っている?
「僕以上に知ってるさ。 その証拠にムシュリカちゃんに時間の猶予を与えたろ?」
俺が席を抜け出したときの事か。
話は戻って、俺の疑問まで漸く到達した。
「今頃サリネが、うまい具合に話してくれていると思うよ。 言葉が直接すぎる所があるから少し心配だけどさ。」
あの女か。
さっさとくたばっていれば良いものを。 何が好きでこの場所に留まり続けているつもりなのか。
「ムシュリカちゃんはさ、サリネのお気に入りでもあるんだよ。
だからお前に対抗意識でも燃やしているのかな?」
笑うな。お前の笑いは全部腹が立つ。
しかしアーサーは直ぐに笑みを止めて、俺を見据えた。
「本当にさ、まだたった半年なのに・・・どうしてそこまで知る事が出来たんだ?」
いつもの意気込みが無い。
毎回そのように静かならまだ話を聞いてやれるのだが。
「無関心のお前がさ、『人間』だって散々罵倒している癖して、 知っているんだもんな。」
お前はあの娘の主だったのだろう? 俺より知っている事なんて幾らでもあるだろう。
それを言うと、奴は珍しく俺に敵意の睨みを向けた。
「全然知らないよ。 ムシュリカちゃんを気遣う前に、僕は自分の事で精一杯なんだ。
自分の事だけで本当に情けないな。 あまり会話も何も無いお前は、それでもムシュリカちゃんを知ってるんだもんな。」
言葉が自嘲的だった。 驚きだ、こいつがこんな弱音を吐くとは。
アーサーの言う事は、先程の事をであろう。
だが、俺はあの時本当にそう動いてしまった。
この場から離れて、あの娘に束の間の休息を言い渡して、 エンディオにもう一度会わせる為の時間を用意した事を。
確かに俺は、あの娘とエンディオを会わせなければならないと思った。
出口へ立ち去って行くエンディオを見つめる目が、エンディオに会いたいと言っている様な気がして。
今会わせなければ、あの娘はエンディオと話す機会を失う気がして。
後悔に満ちた顔を毎日、 見る事になりそうな気がして。
全てが憶測、理論も何も無い、 ただそう思って俺が動いた。
自ら動くのを、嫌う俺が。
「お前はたった半年でも、ムシュリカちゃんを多く知るんだ。 僕の『捕虜』だった人をいつまでも・・・。」
返して欲しいのか?
「彼女も『捕虜』達も、確かに僕たちの中では商品扱いさ。 ・・・でも少なくとも、彼女はもう『物』じゃない!」
奴は、いきなり声を荒げ立ち上がった。
物じゃないから何だ。 少なくとも『皇太子付き』も大して違いのない役職だ。
所詮、あの娘は誰かに仕える身。
「ずっと、僕が一番近い場所に居た。 いつか自由になったら、対等に話せるようになるだろうと思っていた。
けど、お前はずっと僕より多くの事をムシュリカちゃんから得ている!
たった半年しか、ムシュリカちゃんと過ごした事が無い癖に!」
何を、怒っているのだお前は。
突拍子も無い展開に、俺は話がついて行けなくなっていた。
あの娘を、お前以上に知っているだと? 俺が何を知っていると言う?
少なくともお前がずっと知っているだろう。
好みの色、花、食物、俺は何一つ知りはしないぞ。
お前が多く心得ている所が多い筈が、何故俺がお前以上に知っているのだ?
俺はあの娘に深入りするつもりなどない。
お前のお気に入りだった事は気の毒に思うが、俺は俺の知識の探求の為にあの娘を必要としているだけだ。
必要がなくなれば、いつでもお前のもとに返してやる。 これで満足か?
「・・・僕は、 お前のそう言う所が一番嫌いなんだよ。」
今更言うか。
俺も、お前の短所ならいくらでも並べる事が出来る。
何なら今から言ってやろうか?
「皇帝陛下の所へ行ってくる・・・。 こんな話、何時までも埒が空かないしな・・・。」
声が明らかに不快に満ちていた。 そう言って、扉へと踵を返した。
あの娘の話題で、腹が立つ様な話題が一つでもあっただろうか?
思考を巡らすが、出てこなかった。
「だから、僕もいつまでもお前の事知る事が出来ないんだろうな・・・。」
帰り際に、そのような捨て台詞を言うと、勢いよく扉を閉めた。
一人になった部屋で、やっと読書が出来ると安心した。
だがそれでも脳裏に過るは、あの娘の存在。
アーサーをこれほど悩ませ、俺が側に置きたいと思う。
あの娘に、何があると言うのだ。
そう。 一人になって初めて思いはじめた。
アーサーの先程の話題から掬った、一つの問題。
俺が、あの娘を傍に置く理由。
あの娘『ムシュリカ』を、『必要』その建前以上に、置きたい理由。
なぜあの娘が、俺の傍にいるのか。
俺は何故、 あの娘を、 あの娘を傍に置きたいと思った?
*
サリネの言葉に堪えたのか、ムシュリカは何処と言う訳でもなく途方も無く通路をうろついていた。
何故か歩きたい気がしたのだ。 それ以外にこの憂鬱感を紛らす方法が思い浮かばなかった。
数歩歩いては止まり、歩いては止まり歩いては止まりの繰り返し。
立ち止まる度に溜め息が出て、このどうしようもない答えの先を求め続けるのだ。
ふらふらとしながら石造りの通路を歩いていると、横から歓声が聞こえた。
そちらの方向に目を向けると、至近距離で剣闘士の決闘が行われていた。(今度は人間ではなくハヌマだったが)
ああこんな場所まで歩いていたのかと漸く気がついて、我に返ってみると
何時までも続く通路が目の前にあって、後ろは先程通った廊下があって、前と後ろは同じ様な景色だった。
また、迷ってしまったのだ。 ほとほと自分が嫌になる。
肩を落として当たりを右往左往すると風が通り、細かい粒の砂埃が廊下に吹き荒れた。
戦いの血を砂で埋める。
この闘技場は血の層で建っているのだと聞いた時、背筋が震えたものだ。
かつて自分の足下も闘戯広場だった頃に、その場にも血が流れたのだと思えば尚更。
袖で顔を隠しつつ、ムシュリカは風の入り口を見た。
半開きになった扉である。
それも取っ手の壊れた閉じれない扉であった。
何となく惹かれて、その扉の前へ来た。
酷く古い扉であるが、かなり厚くて重量もありそうだ。
ムシュリカはあまり力の無い腕で、扉を開いた。
開いた瞬間、多くの談笑が聞こえたのは驚いた。
城仕えの切欠となった『夜会』を思い出す。
だが『夜会』と違うのは、この場に居る者達が『剣闘士』達であると言う事だった。
酒を飲みかわす者、治療を受けている者、剣を研いでいる者と多くの剣士達が騒ぎ合って、自身の腕を自慢し合っていた。
場違いの世界だ。
ムシュリカの脳にそんな信号が届いて、直ぐにこの部屋から立ち去ろうとした時だった。
「おいアンタ。 こんな所で何をしている?」
野太い声の男に引き止められた。
出会った事も無い者であったが、『人間』の男性のだった。 何となくそう感じ取れた。
「その黒髪・・・『魔族』の奴がこんな場所で何うろついてやがる・・・。」
彼はムシュリカの黒髪を見ると、目を細めて睨みつけた。
彼の一声の『魔族』の単語で、周りで談笑していた者達もピタリと言葉を止めてムシュリカ一人を見る。
彼らの視線が、ムシュリカに震えを誘った。
人間にしては身につけている衣服が高価そうで、容姿も『魔族』に似ているから勘違いされている。
理由が分かったムシュリカは、直ぐに彼に言及した。
「わ・・・私は道に迷ってこの場所に・・・、そして私は『魔族』では無、」
『魔族』を否定しようとした時、呼び止めた男が高らかに笑う。
「こいつは傑作だ! おい聞いたか? このお嬢さんは『魔族』の癖して此所の中さえ分かんないんだとよ!」
周りの者達はムシュリカを嘲るように笑った。
どうしてだろう。 何故かとても恥ずかしいし、とても遣る瀬無く悔しい気持ちが込み上げる。
一際笑った後、彼らは強さを増してムシュリカを睨んだ。
「人に頼み事する時はよぉ、面を下げるのが礼儀ってもんだろ嬢ちゃん。」
酷く冷たく、そして拒否を許さない声だった。
ムシュリカはビクつき、彼らを見渡す。
ここの『剣闘士』の彼らの世界を邪魔してしまった。
一時の支配を忘れる事の出来る時間を、私が打ち壊しにしてしまった。
そんな申し訳の無い悲しさが、頭を下げるように指示を出していて、ムシュリカはその頭を下げようとしていた。
頭を下げようとした彼女を、肩を掴んで引き止めた者が居た。
「ムシュリカ嬢、アンタは『魔族』じゃないんだ。 コイツ等に面下げる必要なんてありやせんよ。」
ムシュリカが会いたかった、力のある声が制止した。
誰か分かって振り返ると、それは間違いなくエンディオだった。
彼は目力を効かせて、仕返しと言わんばかりに彼らを睨みつけた。
ムシュリカを引き止めた剣士に、彼は言った。
「おいお前。 幾ら『魔族』だろうが、
試合に負けたって理由位で偶々通りかかって来た一般人に八つ当たりなんて、どう言う了見なんだ?」
「エンディオさん・・・。 アンタそう言うがよ、『魔族』ってのは虫が好かねぇ。
結局『人間』の事だろうが、兵士の事だろうが屑としか考えてねぇ奴らだ。
此所に居る俺たちだってよぉ、コイツ等に散々言われるがまま・・・―――」
「屑には屑なりの底力があるじゃねえか。 他から見下されるでもなく、上から眺める訳もねぇ。
お前等はお前等なりに胸張ってりゃそれで良いじゃねぇか。 」
男は更にエンディオに迫って、不満を言った。
「アンタは半分『魔族』だからそんな事が言えるんだ! だからこの女だって擁護するんだろ!
『魔族』のアンタに俺達の気持ちなんて分かりゃしねぇよ!!」
そして、エンディオは腹から声を出して言った。
「『魔族』だの『人間』だの、そんな甘ぇ考えだから手前は何時まで経ったって半人前なんだ!!
大体お前は誰に口利いてたのか分かってんのか!? お前等の同胞の出世頭、『聖詠のムシュリカ』だぞ!」
エンディオの言葉に、ムシュリカと剣士達は目を開いた。
その事、此所で言って良いのですか?
そんな一抹の心配が脳裏を過ったけど、傍にエンディオが居たのか安堵感も共にあった。
周りの者達はムシュリカを見るたび、小声で話したり興味深く見た。
否、エンディオとムシュリカであろう。 彼らは二人がどのような繋がりがあるのか知りたがっているのだ。
「・・・すると何だ? そのお嬢さんはあの『皇太子』に選ばれた娘ってのか?」
尋ねた彼はエンディオの頷きを見ると、今度はムシュリカを見て参った様に頭をかいた。
彼も先程ムシュリカに言った言葉に、多少なりとも後悔を感じたからだ。
ムシュリカも困ったように彼を見て、そして顔を俯かせた。
「俺はムシュリカ嬢を送ってくる。 皆、次の試合までに装具を備えておけよ。」
そして驚く一同を放って、エンディオはムシュリカの背を押しながら部屋を出て行った。
呆然と一人立ち尽くしている彼に、もうこれ以上何も言わずに。
ムシュリカはエンディオの顔を見上げたが、彼は彼女に向かずただ前へ進んでいた。
何処へ連れて行かれるのか分からないまま、ムシュリカは彼に行く先を任せた。
*
一騒動あって、逃がされるように彼に連れて行かれた場所は、小さな噴水のある中庭だった。
闘技場に不釣り合いの白い石柱や、ちゃんと手入れが施されている木々や蔦がとても落ち着かせた感じを誘う。
こんな血湧き肉踊る戦いが繰り広げられている場所に、どうしてこんな場所があるのだろうと、不思議に思った。
エンディオは、割と近くに在ったベンチにムシュリカに座るよう誘導した。
先程から早い展開に半ばついて行けなかったが、尋問をされる訳でもないしムシュリカは彼に従った。
彼女が座るとエンディオは彼女の正面に立って、真っ直ぐに頭を下げた。
「本当に・・・済まない事をした。」
何故彼が謝っているのだろうか。
ムシュリカは目を開いて立ち上がると、彼を止めた。
「止めて下さい! 貴方が頭を下げるなんて・・・。」
「あいつ等はまだ半人前で・・・、悪気があって言った訳じゃねえんだ。
なのにアンタは、それでもその頭下げようとしたんだろ?
幾ら『魔族』に近い場所に居ても、そうでもないアンタが俺たちの尻拭いなんてする必要はねぇ。」
確かに、頭は下げようとした。
だが彼の言うように、そこまで考えてした訳でもない。
「俺がもっと早く止めていれば、アンタが嫌な思いしないで済んだ事を――」
「もう、いいんです。 大丈夫なんです。」
少なくともムシュリカは彼らの敵意がムシュリカ自身にあるものでない事を知っていた。
だからこそ彼らの言い分も良く分かるし、納得もしていた。
嫌な思いは確かにしたけれど、彼らも誤解は解けたようだし無事に済んだのでそれでよかったのだ。
「私は、大丈夫ですから。」
もう一度、強く強調してムシュリカは言った。
エンディオも漸く、その頭を上げてムシュリカを見た。
彼女の瞳が真実を言っている事が分かると、彼も元の姿勢になってムシュリカの傍に立った。
彼の顔からホッとした様な、落ち着いた表情が分かるとムシュリカも安心した。
ムシュリカは傍に立つエンディオが、ずっと立ったままで疲れては居ないのだろうかと思った。
なぜなら先刻まで命を賭した決闘を人食い竜と交わしたばかりである。
緊張の一途だったにも係らず落ち着いているのは明らかにおかしい。
「あの・・・エンディオさん。」
ずっと立っていた近衛隊長に尋ねた。
「どうか隣に、座って頂けませんか?」
彼の疲労が心配だった。
少しでも休める時間があるのなら、十分に休ませたい。
エンディオは多少遠慮気味であったが、ムシュリカの説得もあって彼女の隣に座る事になった。
「・・・失礼するぜ。」
笑って彼はムシュリカの隣に座った。 ムシュリカも彼の表情を見て微笑んだ。
だがまた、ここで会話が止まってしまったのだ。
ムシュリカはエンディオに問いたかった事が多くあった筈なのに、聞いてはならない気がして何も言えなかった。
彼を捜して問いつめたいと思っていたのに、いざ直面すると無口になってしまう自分自身が情けない。
そんな心配も束の間、言葉を発したのは他でもないエンディオだった。
「皇子様の高台の辺りから、アンタが俺を見ているのが分かりましたよ。」
ムシュリカは彼の方を向いた。
やはり彼は気付いていたのだ。 それを振り切って退場する彼がとても冷たい気がしたのだ。
「なんで遠征に出ている俺が、剣闘士として参加しているのか不思議に思ったんでしょう?」
彼は、あんな遠く離れた場所からでも分かってた。
ムシュリカが彼に向ける不安と哀切の眼を。 クローディアとサリネの鋭い視線を。
「はい。 だから」
「俺に会って、確かめたいと思った。 そうじゃないんですか?」
ムシュリカは頷いた。 実にその通りだった。
エンディオは苦笑して真正面の噴水を眺めた。
「俺が城仕えするようになってから、もう12年が経った。」
彼は、彼の半生について語りはじめたのだ。
「始めは、アンタと同様に偏見の眼があったもんだ。
何で『黒髪』を持つ俺が、『魔族』の下で働いているのだと不思議に見ている者が大勢居たもんだよ。
元捕虜の奴らも居たけれど、俺を魔族と思ってか馴染めなかった。」
噴水を見つめる彼の眼が寂しそうに見えた。
ムシュリカも同じ方向を向いて、黙って彼の話を聞いていた。
「俺は元々この『アロケナ闘技場』の一剣士で、大会が終わると賞金稼ぎとしてこの国を根城にしてた。
誰に仕えてた訳でもなくてな。 今も主との付き合い方は正しいのか分かったもんじゃねぇ。
剣士として俺は名を上げていたが、そんな俺を恐れてかその頃からでも孤立してた。」
彼は剣を握りしめていた。
当てもなく剣を振るい続けて、孤独には知っていた頃を思い出しているのだろうか。
「それが寂しいというものなら、俺はきっとそれだったんだろう。
俺自身、誰にも馴染むつもりもなかったし、喧嘩売ってくる奴は片っ端から買ってた。
思えば、俺も若かったな。」
呆れているのか懐かしいのか、彼は何とも言えない顔をしていた。
「ムシュリカさん。
アンタにどんな事情があるのか分からんが、アンタもその『黒髪』で何か言われた事があったんじゃないか?」
ムシュリカは問われて、自身の黒髪に触れた。
この黒髪で孤立した事もあったし、誹謗を受けた事はムシュリカの城仕え前からあった。
今でも、何かと言われる。 ムシュリカの沈んだ表情を見て、エンディオはまた話し始めた。
「さっきも言ったが、俺も同様に言われた事があった。
そもそも俺自身はな、元々地位的にも種族的にも微妙な位置に居るから言われる羽目になったんだろうなぁ。
・・・ムシュリカさん、俺はな。 ・・・俺は『魔族』と『人間』の間に生まれたガキだったんだ。」
ムシュリカはエンディオの暗い目を見て真実なのだと悟った。
エンディオが自身の大切な出生を打ち明けた事も会ったが、何より『魔族』と『人間』の子という事実にだ。
とてもじゃないが、そんな話を聞いた事がなかった。
『種族』は、その『種族』内での婚礼のみが認められる。 法律にも載ってある。
エンディオはつまり、 違法で成り立った何よりの証拠。 禁忌の子供という事に当たる。
そして理解出来た。 何故かエンディオに親近感を思えた理由が。
エンディオもムシュリカと同様の『人間』の血を持っていたからである。
「やっぱり、驚きますよね。
そりゃそうだ。 『魔族』と『人間』との婚礼・出産は認められていない。
そんな子供、生まれた所で即刻処刑される。 そういう掟だ。
だが俺はそれでも生き続けた。 俺の母がそう御主人に頼んだからだ。」
詳しく聞けば、
エンディオは捕虜の『人間』の母と、主人の『魔族』の父親の血を引き継いでいるのだそうだ。
公式的には婚礼は認められず子供も殺せと命じられ、母親はどうにかしてエンディオを生かす事を主人に願った。
そして条件として、エンディオを生んだら母親は自決する事。
その生まれた子供のエンディオは『捕虜』として生かす事で、互いに了承したのだそうだ。
「偶然にも俺の母は嘗て『英雄ヘラクレス』と謳われた男の血を持った女だったんだ。
俺にもその血は引き継がれていた為、主人の父は俺に出場するよう命令した。
結果は見ての通りさ。 俺にも戦いの血が目覚めて、主人の満足する結果に至った。」
彼は、笑ってた。
ムシュリカは悲しくなった。
何の恨みもない人を斬ると言うのはどのような気分なのだろうか。 彼は『何も感じなくなった』と答えた。
彼は先程も、自分で捕らえた竜を彼自身の手で始末したのである。
『見せしめ』と言う、形で。
『感じなくなった』と言った彼だったけど、その瞳は何より悲哀に満ちていた。
「気がつけば俺の後ろのは死屍累々。 俺は『砂塵の赤獅子』なんて異名までついていた。
俺の実力は『捕虜』の中に留まらず、様々な依頼を王宮から受ける事もあった。
そして『魔族』の親父から独立してから暫く経った頃だ、 俺の出生を知ったのは。
・・・御主人を恨んだよ。 だから俺は『捕虜』の中では最悪の罪、『魔族殺し』を犯してしまった。」
それは『捕虜』の中では、最悪の犯罪である。
元々稀少の上に、上層階級でもある『魔族』を手にかけるなど考えられない事である。
それがどのような事態に陥ったのかは想像もつかないが、
少なくとも彼が『親殺し』と『主人殺し』の二つの咎を背負ったのは事実だった。
「俺は串刺しの刑で、見せしめになろうとしたんだ。 だが、その時だよ。
アンタの主人でもあったアーサーさんが止めて下さったんだ。」
彼の人生が本当に終わりそうになった時、磔になった彼に槍が向いた瞬間、
割って入ったのはアーサーと皇太子クローディアだった。
「まあ必死になって止めてたのはアーサーさんだけだったんだがな。
それに皇子様の仲介もあってか、俺の処刑は取りやめとなったんだ。
そして俺は、アーサーさんに・・・。」
何故、赤の他人である自分を助けたのか。
エンディオはアーサーとクローディアに問うた。
どうやら彼の主人でもあり父親でもある『魔族』には黒い噂が絶えずあり、調べた末にエンディオに辿り着いたと言う。
そのエンディオにも『魔族』の血は流れているのに、同族でもある者を殺すわけにはいかない。
アーサーは『慈悲』あって彼を救ったようだが、対するクローディアは『利害』で彼を生かしたそうだ。
兎も角も、エンディオがクローディア等に恩を深く感じているのだそうだ。
命の恩人でもあり、同族でもある彼らに。
「俺は、あのお二人の為なら何だって出来る。 命を賭けなければならない事であろうとも・・・。」
彼の眼は本気だった。
ムシュリカはじっと彼を見つめて分かった。 彼とムシュリカが似ている事に。
「でも何でまた、こんな試合に出なければならないのですか?」
それがアーサー達の何に繋がるのだろうか。
少なくとも、つまらないと蒙語するクローディアが命じるとは思えない。
「聞かなかったのか? リベリオン皇帝陛下なんだ。
あの方が俺に出場するよう要請した。 俺が此所の参加者にならない理由はそれなんだ。」
一国を統べる皇帝からの話ならば、断らないわけにはいかないだろう。
幾らアーサーが頼みこもうとも、彼でも皇帝の欲望は止められない。
「クローディア様が皇帝になったら、この国も少しは変わるんじゃねえのかな・・・ってな。
いろんな種族が暮らしやすい世の中に、あの人なら出来るかもしれねえって・・・。」
確かにリベリオン皇帝は、この国自体を豊かにしているのかもしれない。
だが彼は、誰の幸せも考えては居ないのだ。
彼はただ欲望溢れるまま、それに金をかけ権力で言わせて彼一人で楽しんでいるに過ぎない。
誰一人だって、他人の辛さなど考えては居ないのだ。
「クローディア様は冷酷だ。 誰にだって冷たい御方だ。
だがそれ以上に一人ひとりの思い、小さな出来事だって残さず拾って知ろうという姿勢がある。
それは一番近くに居るアンタが良く知っているか。」
クローディアの話題が持ち込まれた時、何故か彼の名前を聞いてホッとしていた。
エンディオの言うように彼は確かに人に厳しく冷たい人だけど、誰より人の気持ちに敏感なのだ。
アーサーや自分以外にも理解者が居てくれる事に、ムシュリカは安心した。
彼女が笑うと、エンディオもまた笑って話した。
「けれど、あの人は欠けているんだ。
クローディア様は『信頼』と言うものに拒絶している。
だから、あの人の周りは何時だって『孤独』なんだ。」
ムシュリカも、信用されていないから分かる。
クローディアはムシュリカを必要としているのが分かっても、彼はやはり人を信頼しきっていないのだ。
それはアーサーにだって、エンディオにだって。
頼りになるとは分かっていても、彼は任せる事は無いのだ。
「アンタが城に来てからかな・・・。 ムシュリカさん、皇子様が変わりはじめているんだよ。」
エンディオのこの一言が、ムシュリカの心に大きな波を起こしたのは言うまでもない。
彼はいつの間にかムシュリカの方を向いていて、彼女の驚く顔を意外そうに見た。
「微かにだが、皇子様を纏う空気が穏やかになった気がする。
それもアンタが居る時に限ってだ。
直接感じた訳ではないが、ムシュリカさん。 アンタは皇子様に『暖かさ』を触れさせている。
皇子様は、確かに変わり始めている。」
そんな事、あるのだろうか。
だが
「私が、皇子様を変えている筈ありません。 いえ、変えてはならないんです。」
そんな事、していい筈がない。
クローディアはあくまで恩人と主人として崇めるべき人だ。
そんな人の世界や思想を変えてしまうのは、なんだか申し訳なく感じる。
ムシュリカは、エンディオの言葉を否定したかった。
「私は皇子様に召し仕えている身ですし、ただ私は」
「アンタ・・・そう言えば、クローディア様って名前で呼んだ事ないのか?」
エンディオは突然、ムシュリカに問うた。
クローディアについて混乱していたムシュリカは静止した。
「ムシュリカさんは、一度だってクローディアって名前を口にした事はねぇ。
いつも『皇子様』としか、呼んでいねぇ。」
名前。
そう、ムシュリカは一度だって『クローディア』と呼んだ事がなかった。
誰にだって必ず『皇子様』と彼を呼称していた。 理由は勿論、
「名前で呼ぶのが怖い・・・じゃないんですか?
だがムシュリカさん、アンタは許されなきゃ名前で呼ばないのか?」
ムシュリカは表情をなくした。
エンディオの言葉が明快且つ、一番柔い所を突いたからだ。
「俺もアーサーさんも、言える時には『クローディア様』と呼んでいた。
それでも俺たちにはあの人を変える事が出来なかったんだ。 アンタに出来ない訳がない。」
自信を持つようにエンディオは言うけれど、ムシュリカそれでも認められなかった。
クローディアを変える可能性を自分が持っているのが、信じられないから。
「私に出来る訳が・・・」
「アンタなら出来る。 その力が備わっている。
俺には分かるんだ。」
どんな根拠で言っているのか、それは分からなかったけど彼の言葉は説得力があった。
ムシュリカは何も言い返せなくなった。
「頼むムシュリカさん。
皇子様には味方がいねぇんだ。 だがあの人を信頼している人達は多くいる。
アンタが最初の一人になって欲しい。」
そんな凄いものに私がなっていいのだろうか。
ムシュリカは決して、自分の力を過剰に考えた事はない。
なるべくクローディアの迷惑にはなりたくないし、彼の機嫌を損ねたくない。
それは、主人としてではなく一人の人として。
「皇子様は誰も信じる事が出来ないのに、ですか?」
「一番クローディア様を信じたいアンタが何を言っているんだ。
・・・それと、一つ頼みがあるんだ。」
エンディオはムシュリカを見つめた。
その瞳には真剣さと誠実さが宿っている。
「ムシュリカさん。 アンタだけは、最後までクローディア様を信じてやって欲しい。
何があっても、信じて欲しいんだ。
あの人はもう一度、人を信じなきゃなんねえから。」
クローディアを信じる事。
それが、エンディオの頼み。
ムシュリカは未だ、クローディアに信用されているとは言い難い位置に居る。
信じようとしない人を信じて欲しいなど普通無理な話である。
信じているならまだしも信じていないのだから。
彼は誰にだって冷たい筈だ。 それは自分自身も例外ではないとムシュリカは感じていた。
だがエンディオは確かに、ムシュリカがいると穏やかになると言ってクローディアを変化を望んでいるのだ。
エンディオはムシュリカと対等の位置に居る者だ。
今までとは違う。 『魔族』と言う者でも、主人と言う者でもない。
対等な人間だからこそムシュリカに『頼む』事が出来るのだ。
彼が本当に『頼み』として言っているなら引き受けようと思ったのだが。
不思議な事に気がついたのだ。
丸で自分が仕方なく引き受けそうだと言う事に。
それは同情で、彼の願いを引き受けると言う事になる。
そんな気持ちではクローディアをどうにか出来る訳がない。
ムシュリカは、改めてクローディアへの思いを振り返った。
冷たい癖に人の思いを必死で拾っていて、人の秘密は探るのに自分の心は明かさず。
万物をつまらないと言っておきながら誰よりも興味を持っていて、伝えたい事も歪んだ形でしか表せない。
とても不器用で自分勝手な人だけど、 誰より人を大切にしてくれる彼女の『理解者』。
クローディアは皇太子である。 だがその前に一個人であるのを忘れてはならないのだ。
きっと彼にも、感情と言うものがあるのだから。
ムシュリカは、クローディアを思いながら微笑んだ。
そう。 エンディオやアーサー同様に、ムシュリカもクローディアが好きなのだ。
幾ら彼が嫌おうとも、ムシュリカは嫌いになり切れない。
クローディアがもう一度だけ、もう一度だけ信じてくれるなら。
彼は一度、何かに裏切られたのだろうか。
エンディオの言葉にムシュリカは何か疑問を感じたけれど、何も言わず静かに頷いた。
クローディアに対しての思いは、エンディオの言うように『信じたい』という気持ちだったから。
その返事を聞いて、エンディオも満足そうに笑った。
「ありがとうムシュリカさん・・・。 アンタに頼んで、本当に良かった。」
彼は一息ついて、石のベンチから立ち上がった。
「私は・・・ただ、 ただそうであったら良いと思っただけです・・・。」
自分で考えだして言った言葉なのに、可笑しいと思う。
ありがとうと言われた事に動揺している所為かもしれない。
彼とは会って間もないのに、ここまで親近感を持てるのが不思議だ。
きっと真摯な気持ちで心の内を語ってくれたお陰だと、ムシュリカは思った。
「そのアンタの気持ちは、いつかきっとクローディア様に届くよ。」
そう言う彼の笑顔が、太陽のようだった。
見上げて話している所為か、彼と日の光が重なったからだ。
ムシュリカは、彼が眩しかった。
話が終わったと同時、彼は庭の近くにあった日時計を見て眼を開いて慌て始めた。
どうしたのだろうと彼に尋ねてみると、彼はいつもより早口になって言った。
「悪いなムシュリカさん。 皇帝陛下より謁見の話があったの忘れてた・・・。
すっかり遅刻だなぁ・・・こりゃ・・・。」
ムシュリカを見て、彼は苦笑した。
「どう、しますか?」
遠慮がちにムシュリカは彼に問うた。
「また後で、陛下に謝りに行くさ。」
肩を落として、彼は答えた。
それを見たムシュリカは困ったように笑った。
何せここの通路は入り組んでいる為、ムシュリカはまた迷ってしまう。
彼はムシュリカをクローディアの高台まで連れて行かなければならないのだから。
「ムシュリカさん。 今日は俺の話を聞いてくれて本当にありがとな。」
「そんな・・・。 でも良かった。」
照れながらムシュリカは下を向いた。
エンディオは、クローディアがムシュリカを選んだのが偶然にしても、その選択は正しかったのだと感じた。
彼女は、彼女の周りは不思議と温かくなるのだ。
そよ風が吹くように、花が綻ぶように。
沈み荒んだ空気を、優しい気持ちで満たしてくれる。
それがクローディアにも影響しているのだと思うのだ。
「ムシュリカさん。 クローディア様にとっても、この国にとってもアンタは必要になる・・・。」
ムシュリカに聞こえない小さな声でエンディオは言った。
彼女が変革を起こす事を信じて。
「今度・・・また今度、話せる機会があるなら是非 アンタの事を話して欲しい・・・。」
隣を歩くエンディオが、とても心強い。
自分自身を話すのはとても難しくて、恥ずかしい事なのだろうと思ったけど、
彼なら話しても良いかもしれないとムシュリカは感じた。
彼と共にクローディアを信じてみたいから。
「はい。 その時は是非。」
彼の隣で、ムシュリカは自分の言葉に誓った。
了