ラクシュミ 〜221譜の讃歌〜





     『序章・携行夢魔』:前  Randagio








   『 右手 それは愛を掴むためのもの

     左手 それは栄光を掴むためのもの     

     差し出すべきは栄光である。

     彼らは未だかつて其れに触れた事がないのだから。     


     《葬礼 第二節》   セリカ・ラフマノフ 』








   大陸暦  1429年  『葬礼祭日』



   帝都シャクルム   宮殿内 : 朔の間






   部屋中の参列者は、皆漆黒の衣服を纏った者達ばかりだ。
   追悼儀の礼と言う事も含めてだが、黒を纏う彼らが今日に限った黒衣装を着てようと違和感は沸かない。
   髪も衣服も黒黒黒、紺のカーテンで張り巡らされているので今は夜と勘違いをしそうだが、
   惑う事無き真昼なのは、外の廊下に出ればすぐに分かる。

   今日は貴族に限る祭日で、当然の事ながら『皇太子付き』のムシュリカも絶対参加だ。
   皇帝が悼辞を述べ、全員が彼に礼をし、他国から呼んだ僧正の鎮魂詩に耳を傾ける。
   興味を持たなかったけれど、緩慢な空気がムシュリカに睡魔を誘うので眠らないよう必死で保った。
   しかし睡魔は部屋中に漂う御香の芳香によって更に深みを増す。

  「あと少しだ。」

   隣に座っているサリネがムシュリカに目を覚まさせてなければ、今頃夢の中である。
   彼女には何故、睡魔が襲わないのか。
   ムシュリカは漠然とした意識の中でそう思っていた。


  [ 皆々は中央に位置する香を焚きつつ、御霊の冥福を祈り賜れよ。]

   アーサーの最後の言葉が終わり、会場内に段々と騒がしさが甦る。
   香を焚いた者から退室していくので、これにて追悼式は終了したのだ。
   隣にいたサリネは肩や首を鳴らしつつ、ムシュリカに尋ねた。

  「あたし達もさ、香を焚かなきゃならないのかね?」

   酷く嫌そうである。 それはいつもの事であるが。
   ムシュリカは彼女を宥めつつ会場を去る方法を考えていた。

  「さあ? そういった指示は無かったけど。」

   談笑しているアーサーの方を見て言った。
   相変わらず笑顔と持ち前の明るさを表して。



   ムシュリカが、皇太子クローディアの元に仕えだしてから一期が過ぎようとしていた。
   思い返せば『地帝聖誕祭』の夜会の日以降、日常は更に奇天烈なものになっていったが、
   傍には頼りになる同僚がいるし、元主人のアーサルト卿の積極的な協力もあってか大分落ち着いてきた所だ。
   文字を学べよとのクローディアの命令があって、度々アーサーに尋ねる回数も増えた事があってから
   職務以上に、勉学により時間を奪われていった。

   そもそも勉学というものに無縁だったムシュリカは、1頁の単語を理解するのに多くの時間を要した。
   多忙なアーサーに尋ねるのは躊躇したもの快く引き受けてくれて、ひたすら感謝し続けるばかりだ。
   どんな事でもアーサーは丁寧に付き合ってくれるので、ムシュリカはもっと嬉しくなった。
   当時のぎこちなかった二人の影は、今はもう見当たらない。

   本来は職務放棄とみられるだろうが、ムシュリカに文句を言う者は一人もいなかった。
   『皇太子付き』とはこういう職なのだと、改めて知る事の出来た。
   だからこそ余計に、『皇太子』に畏怖を抱いたのも隠せない事実だ。



   身に流れを任せたままでいたら、いつの間にかムシュリカ達にも香が回ってきた。
   初めこそ戸惑ったものの、他の城仕えの者達も香を焚いていたので、成り行きでする事となった。

  「礼拝でやるような作法で構わないよ。」

   いつの間にか傍らにいたアーサーは、迷っていた彼女に笑顔で薦めた。
   その笑顔に断るわけにも行かず、ムシュリカは苦笑して頷いた。(隣にいる親友は舌打ちをしつつ)
   手で掴めるだけつかんで、其れをなるべく零さない様に気をつけて中央へと急ぐ。
   部屋の中央の大釜は、中を見ると既に多くの香が燻ってある。
   ムシュリカは釜の縁に近いよく焚きそうなところを見つけると、香を流してさっさと退散した。
   思い返せば、随分と質素な式だったのだと思う。

   香を捨てる形で釜に突っ込んだのをアーサーに窘められてるサリネが遠くから見えた。
   サリネのアーサーへの印象は、依然(サリネの一方的で)険悪なのだ。


  「あんなにたくさんの人が、城に住んでいたんだね。」

   ムシュリカは城を徘徊する事が非常に少なかった。
   クローディアは自室か図書室くらいしか場所移動がないために、ムシュリカは未だに城の場所には疎いのだ。
   のでクローディアとアーサー以外の貴族も、見かけた回数は数えるほどなのである。

  「そうだね。 この城って階数ごとに住居が区切られてるみたいだから。」

   それでもこの間の『夜会』の三分の一にも満たない人数らしい。
   自由に動けるサリネの職務が、少しだけ羨ましく思った。

  「そんなに・・・。 全然知らなかった・・。」

   素直な意見である。
   そんなムシュリカの言葉に軽く納得すると、彼女は手元にある掃除用具をムシュリカに見せる。


  「さて。
   残った女中達は室内清掃だって。 さっさと掃除して、ご飯にしよう。」

   サリネはそう言うと、ムシュリカに箒を手渡した。
   ムシュリカは微笑んで、それを受け取った。



   *



  「そのお偉い『皇太子様』って、どんな顔?」

   パンを乱暴に食べながらサリネは聞いてきた。
   掃除を終えた二人はいつもの空中庭園にて密やかな昼食を過ごしている。
   いつもとは違う事は、そこには二人だけしかいないという事だが。

  「・・・サリネは見た事ないの?」

   クローディアの自室にいる際は、常に素顔のままなのをムシュリカは思い出した。
   考え直してみれば彼は殆どの者達とは拒絶に近い状態であり、余程の事がない限り人と会おうとしない。

  「見た事無いも何も・・・私は『皇子様』に近づいた事もお目にかかった事もないんだよ。」

   サリネの職務は、アーサーの助手である。
   が、それはムシュリカの『皇太子付き』とは違い、記録や会計を行う地道な作業だ。
   いつも夕食が済むとさっさと自室に戻ってしまうので、楽とは言えない仕事であるのは確かだが。
   考え直せば皇太子に直接面会する機会など、城に勤めているものでも有るか無いかの確立である。

  「そう言えば、そうだよね・・・。」

  「ああ。 素顔の時なんてあったか?」

   いざ面会する時になると、彼は白い仮面に顔を隠すのだろう。
   サリネが彼の素顔を拝むなど恐らく無い。
   それは少なからず自分が特別だからだろうかと思う所もあるが、易々と言える物ではない。
   というより彼の話題を避けるべきなのだろう。

   其れよりも何故こんな件になったのか。
   ふとした疑問をサリネに尋ねた。

  「どうしたの急に? ・・・なんで『皇太子様』の事聞きたくなったの?」

   とことん『魔族』を毛嫌いする彼女がクローディアについて聞く事自体が珍しい。
   もしかしたら『魔族』に対する彼女の考えが少し緩和したのだろうかと思ったが、それは外れた。
   回答は、それは驚くべき事だった。


  「アンタがさっきから、『皇子様』の話題ばかり私にふってくるからじゃないか。」


   絶句だった。
   目を開いてサリネを見つめた。

  「普段からそういった話題は避けてきたくせに、最近その話ばかりしてくるよ?」

   確かに、今さっきまで昨日のクローディアとの遣り取りを話していた気がする。
   それは何時も通り彼は無言で本に集中し、ムシュリカは部屋の隅で語学に励む話だ。
   何故だろう?

  「そう、・・・だったんだ。」

   自分自身に驚きを隠せなかった。
   何故? 彼の話をサリネに話したのだ?
   彼女はきっと、嫌がるに決まっているのに。

  「ごめんね・・・。 嫌だった?」

   気を悪くした事だろう。
   この空中庭園にいる間だけでも、微々たる楽しい日常を取り戻していたのだ。
   それを、ここで壊すのか?

  「そう言うんじゃないよ。
   深い意味は無いし、探り出そうとしているわけでもないさ。」

   ムシュリカの言いたい事を察したのか、サリネも慎重に話す。

  「ここで働く以上は『魔族』と面あわすのは当たり前になっていくんだし。
   ・・・ま、ムシュリカの仕事が少し気になっていたのもあるんだけどね。」

   ムシュリカの考えは、当たらずとも遠からずだった。
   だが彼女もムシュリカに対して変化を感じ取ったのもよく分かった。

  「『皇太子付き』なんて辛いに決まってるしな。
   愚痴りたいほど仕事辛いのか・・・って思った事もあったんだけど。」

   辛いといえば辛い。
   日がな一日、彼と向き合わなければならないのは苦痛の他なかった。
   どうやって、これから彼と付き合えばよいのだろうか。
   彼への遠慮と戸惑い、それに訳の分からぬ歯痒さを感じている。
   それが知らず知らずのうちにサリネに零していたとは。

  「『辛い』とは違うと思う。 きっと、『怖い』のかな・・。」

   本心、常にビクビクしていた。
   上手い事、クローディアに関わらずに済む方法を模索していた。
   実際関わりたくないので、未だにこの職務に不安を感じている。
   彼がムシュリカを指名した理由が、ハッキリと分からないのだ。

  「『怖い』・・・。」

   妙なムシュリカの言葉を拾ったサリネは答えに曖昧さを感じていた。
   しばし見ているのは彼女の表情をよく確かめているため。
   サリネは黙ったままだ。

  「・・・ムシュリカ。 あのおーじ様を無視してもクビになる訳じゃないじゃん。」

   どうもサリネはクローディアについて悩む事が不可解に思ってならなかった。
   目の上のたんこぶの『魔族』を避けてきた彼女が、その『皇子』について延々と話すのが実に矛盾しているのである。

  「アイツに文句の一つでもぶつけてやりゃいいのに。」

  「無理に決まってるよ・・・。 私は『皇太子様』の側に仕えるのが仕事なんだから。」

   温厚なアーサーでもあるまいし、一国の皇太子に対しその様な無礼はあるまじき事である。
   無論サリネもそんな事までするとは思っていない。
   だが、今まで知っていたと思っていたムシュリカが此処へ来てから徐々に変わっている。
   そのうち知らない何処かへ、遠くへ行ってしまうのではなかろうか。
   よからぬ不安がサリネの心によぎる。

  「そりゃ・・・そうか。」

   なんとも簡単な返答をして二人の会話は途切れた。
   お互い何時もは休み時間が終わるまで会話が続くはずなのに今日に限って気まずかった。
   サリネは誤った答え方をした自身に呆れつつ、また食事を続けた。


   昼食の半分以上を食べきったところで、ムシュリカは思い出した。
   話の冒頭のサリネのクローディアについての質問である。
   すっかり、話題から過ぎ去っていたのだ。

  「あのね、サリネ。」

  「ん?」

   ムシュリカは質問の答えを言っていないのに気がついた。
   ようやっと、答えたのだ。


  「皇子様・・・とても、とても美しい貴人なの。
   月明かりに照らされた姿は艶やかで、丸で天の御使いのようだった・・・。」

   無信心者の自分がこの例えを引くのは滑稽な気がしたが、正直にそう思ったので訂正はしなかった。
   目を丸くしたサリネは、先程のムシュリカのように驚きを隠せない様子だ。
   こんなサリネを見るのは、久しぶりである。
   内緒で準備した誕生日プレゼントを渡した時の、そういった驚きだった。

  「そう・・・そうなんだ。 不細工じゃないんだね。」

   彼女は驚きのあまりか、大した回答は出来なかった。
   だが後者の回答を聞く限り、多少残念そうなのがムシュリカに苦笑を誘った。
   お互い、落ち着きを取り戻した頃に、またムシュリカは言った。

  「サリネ・・・私、勉強しとけばよかったって思ったんだ。」

  「それで?」

   サリネが答えを急かした。
   ムシュリカは傍らにあった薄汚れた皮の本を取り出した。
   以前から持ち歩いてある言語の辞書のようだ。

  「『言葉』以外も私・・・勉強してもいいのかな・・?」

   サリネに向かって、ムシュリカは笑った。



   *



   勉強と知識が他者との関わり合いの一つなら、一つでも多く学んでおく事は無駄足ではないだろう。
   其れが切欠で、アーサーとの関係もどうにか直ったのは記憶に新しい。
   知識の幅がクローディアとの交流の幅を広げる事になるなら、面倒でもやっておきたいのだ。
   彼に対して恐れはあれど、主人なら多少の交流は避けられないのだから。

   当然生半可な気持ちで学ぶのは彼に対しての非礼にあたるし、恥をかくのが目に見えている。
   彼の前で恥を晒す、無礼を行うのは彼の恥に繋がる。その恐れも当然ある。
   だが文句を言う暇があるのなら自ら学ぶ気持ちを押し出すのが吉であるとも思ったし、
   アーサーと会える機会も多くなった事が辛さを薄らぐのだ。

   幸い呼び出しも今のところないので、ムシュリカは極力空いた時間を勉学につぎ込む事にしていた。
   今日も今日で彼女はアーサーの居るであろう図書室へと足を運んだ。

   樫の扉の前で立ち止まった時、室内から反響音が聞こえてきた。
   扉に刻まれた獅子のレリーフが微かに震えている。
   中で誰かが叫んでいるようだ。

  「図書室は・・・・騒音厳禁な筈。」

   室内では、なにやら諍いがあるようだ。

   そっと、扉を開いた。
   中の様子を垣間見る。


  「何故です! 貴方ほどの方が、この様な巫山戯た事を続けてらっしゃる!」

   叫んでいるものの、一方は敬語を扱い、厳粛な態度で相手に挑んでいるようだ。
   皺がれた響きの聞き覚えがある声。
   だが相手は聞く所か無視しているらしい。
   
  「再三忠告した筈です! 余興とは言え、これは常軌を逸している!
   国家の象徴たる貴方が・・・あのようなっ!!」

   一方の者は憤っている。
   その者の声に耐えかねたのか、もう一方の者も声を発した。


  「いつ誰がふざけていた? 俺が何をどうしようと俺の勝手だろう。
   国家の象徴だの国の柱だの・・・貴様ら『亡者』の妄想に付き合う気など毛頭ない。」


   淡々としているが、氷柱や鋼鉄のような冷徹さと重さのある声。
   この声はムシュリカが身近に聞いている声。
   つまりその部屋に居るもう一人の方は。

   ムシュリカは扉から後ずさった。
   入ってはならない、そう感じたのだ。
   憩いの時一番忘れ難い、忘れたい人物がその部屋に居るのだ。
   入りたい訳がない。 息が乱れてくる。
   扉から立ち去ろうとした。


  「盗み聞きまで上手くなったものだな。 何時まで立ち聞きしている?」

   彼の一言がムシュリカの足を止めた。
   扉に背を向けた、そのまま走って逃げ出しても良かったのかもしれない。
   だって彼もムシュリカと知っているわけ無い筈なのだから。

   だが彼は、その一言でムシュリカの行動一つを支配しているのだ。
   ムシュリカは其れに抗えず、空きっぱなしの扉を大きく開いた。


  「・・・失礼、致します。」

   中に居た人物と、初めて対面した。
   ムシュリカの予想通りだった。

  「やはりお前か。」

   彼、クローディアは先程と(恐らく)態度を変えずにつまらなそうに溜息した。
   礼をするのも忘れてムシュリカは皮本を握り締めた。
   机の上には大量の本の山が聳え立ってある。

  「貴女は・・・!」

   クローディアと対相して椅子から立ち、彼を睨む様に見ているのは見覚えのある顔である。
   城にて数多くの下男や侍女達と顔をあわせているが、そのような顔ではない。
   彼とは、寺院で会ったのだ。
   『地帝聖誕祭』に出会った、あの時の大僧正だった。

  「大僧正様・・・御久しゅう御座います。」

   一礼をし、彼に一言挨拶した。 其れを見て彼はムシュリカに頷くように交わした。
   大僧正とは会話にもならない会話を一回交わしただけで、以降交流も何もなかった。
   だが彼との出会いは運命的かつ強烈で、ムシュリカも忘れる事はなかった。

  「『皇太子付き』は貴女の事ですね。」

   そう言えば彼は視線をクローディアへ移した。
   声は微かに震えている。

  「貴方の事を理解しかねる。」

  「理解なんて求めた覚えもない。」

   彼は本の視線を大僧正に向けた。


  「貴様が何を企もうとな・・・。」

   彼は大僧正に薄い笑みを浮かべた。
   その一言に負けたのか怒ったのか、クローディアに背を向けて扉へと向かう。
   ムシュリカは彼の怒りとも悲しみとも判らぬ顔に慄き、自然に道を明け渡していた。

   そして帰り際に一言呟いた。


  「その様に歪んだままでは・・貴方は堕ちる道しかない・・。」


   最後の声は、実に悔しそうだった。
   再び振り向き、クローディアとムシュリカに一礼して部屋に扉の閉まる音がした。
   そして図書室は彼ら二人きりになった。

   大僧正が去った扉を眺めていたムシュリカは、背後のクローディアを思い出した。
   彼は本に集中して、ムシュリカには目もくれなかった。

  「日が暮れるまで立っている気か? さっさと座ったらどうだ?」

   ムシュリカは彼の命令とも勧めとも分からぬ言葉に動揺したが、言われるまま席に着いた。
   もちろんクローディアからかなり離れた机の端に。 彼には近寄りがたかった。


   いつも暗い図書室が一層陰湿な空間に感じた。
   アーサーがいる時とは違う空気の重さ。
   それらが凄んでいるかのようにムシュリカの精神を圧迫した。
   クローディアがいる中で学ぶのは些か緊張したが、彼は無視しているようだしムシュリカも出来る限りは集中できた。
   アーサーがここに来るまでの辛抱だ。 そう思っていた。
   その筈だった。


  「アーサーを待っているなら、無駄だと思うが。」

   彼がムシュリカに呼びかけるまでは。
   クローディアの言葉に、ビクリと肩が反応した。

  「奴なら何時も従えてる女中と共に帝国港の下見だ。 今日ここには来まい。」

   ムシュリカは文字を綴っていた手を止めた。
   女中とは紛れもなくサリネの事であろう。
   主人がアーサーなのだから、彼も共に行くに決まっているではないか。

   アーサーがムシュリカに勉学を指導している事を知っているのは、彼自身がクローディアに伝えたのか。
   そんな詮索などどうでもいい。

   今日、どうすればいいのだ。
   居ないからと、いきなり部屋から退室するのも不自然である。
   かと言って、いつまでもクローディアの元で勉強に集中できる筈もない。

  「今日一日、この城には戻ってこないと言う事ですか・・?」

   尋ね辛かったが彼に聞いてみた。
   そんな彼は無言だ。
   肯定の合図である。

   ムシュリカは肩を落として今日やる筈の本のページをぼうっと眺めた。
   このまま数時間こうしているしかないのだろうか。
   念頭にそう考えながら。

   だが呆けていた時間は意外と短かった。


  「おい。」

   遠くに座っているクローディアが切欠だった。
   彼の声が耳に届いたムシュリカは、自然と彼の方へ顔が向いていた。

  「ここへ来い。」

   ムシュリカの方を向いて、彼は言った。
   彼は向かいの席を指差している。
   ムシュリカはその呆けた顔でその席を見ると、たちまち目を開いた。


  「・・・っえ!?」

   彼へ向きなおしてムシュリカは立った。
   そしてオロオロしながらクローディアと彼の指差す席を見比べた。

  「・・・聞こえている筈だろう。 早くここへ座れ。」

   多少苛つきながら、クローディアは催促した。
   ムシュリカはすぐに彼の様子に気がついて、本と筆記用具を片付け始めた。

   向かいの席へ座る事を命令されたのを疑問に思いながら、なるべく音を立てずに移動する。
   近くに行けば行くほど彼の存在と本の山が大きくなっていくのを感じた。
   クローディアの指定した場所に着いて、ムシュリカはそれらの道具を机に置いて椅子を引く。

  「・・・失礼、いたします。」

   目の前の彼の存在に抵抗を感じながら、ムシュリカは静かに席に着いた。


  「・・・・・・。」

   ムシュリカが席に着いたのが分かると、彼はまた黙々と本を読み始めた。
   顔をそらすようにして彼女の方向を決して向かずに。
   それならば始めから来させなければ良いものを。

  「・・・・・・・・・・。」

   先ほどと同じ様にクローディアは居ないという心持ちで筆を進めようと思ったけれど、心を抑制できるほど器用にはなれなかった。

   彼が目の前に居るのに平然と学に励んでていいものなのか。
   平常心で居られる訳がなかった。
   なぜここへ呼び寄せたのだろうか?
   それが疑問でならなかった。

   ムシュリカの筆の進み具合が滞っているのに気付いて、クローディアは言った。

  「・・・何故ここへ寄越したのか、と思うのか?」

   ムシュリカは彼へ目を向けた。
   依然として、本に視線を向けたままであったが。

  「主の命令には絶対服従するという心得の為に、私へ問いを諦めたのかと思ったまでだ。」

   確かに、それも一理あった。
   知るべき者だけ知っておけばいい。 自分は知ってはならない事を知る必要はない。
   知った上で自分のやるべき事は大したものでもない。 と、諦め半分怠けていたところもあったのだ。
   そういった心の在り方が、今までムシュリカを構築していたのだから。


  「察する通り・・・、『人間』をここまで近づく事を許した事は少ないな。」

   彼はムシュリカへと視線を移した。
   背筋に緊張が走った。

  「では・・・一体?」

   そう尋ねると、彼は逆に聞いてきた。


  「お前は、どの程度読めるようになった?」

   いつだって彼は強引だ。
   質問の暇を与えず、困らせるのを楽しんでいるのかもしれない。

  「どの程度と仰れば・・・月並みな言葉程度でしか・・・。」

   その様子にクローディアは何を思ったのか、適当に選んだ本をムシュリカの前に放り投げた。
   ムシュリカは目の前の本を手に取った。

  「・・・あの・・・。」

   この本をどうすればいいのだろうか? 書庫に戻せば良いのだろうか。
   戸惑う彼女に、彼は言った。

  「適当な頁を開いて、その一文を読んでみろ。」

   彼は、本の頁を捲った。
   そう言うだけで、後は何も言ってこない。
   ムシュリカは彼の命令に返事はしなくとも、言われるがままに本を開いた。

   紋様のような蔦のような羅列した単語が、いくつもいくつも続いている。
   見た事もないような単語もちょこちょこと載ってあり、ムシュリカは有りっ丈の知識でその文を訳す。
   彼と頁を暫く見比べてたが、遠慮がちに文を読み始めた。

  「・・・『彼は確か、こう言っていた。「最後の嘘は、再会を願うものだったと。」そういっていた気がする。
   彼はそれを言う度、涙を流して彼女の詩を謳い始めたのだ。
   いつか約束した他愛の無い「誓いの契」を。
   ・・・彼は声が涸れ続けるまで謳い続け、そして変わってしまったのだ。
   彼は二度と私たちの元に返ってこなかった。 その後――――』」


   続けて読もうとした時、クローディアが手をかざした。
   ムシュリカは読むのをやめて、彼へと視線を移した。

  「それだけ読めるようになったなら、もう辞書も必要ないだろう。」

   クローディアはいつのまにか、視線をムシュリカに合わせていた。
   彼女の肩が些か震えた。

  「あの・・・それで?」

   何がしたかったのだろうか?
   言われるがまま読んだのは良いが、内容は変哲もないし、特に面白い話でもないようだ。
   彼の意図が丸で見えない。


  「もうそれほど学に根を詰める必要はないだろう。 明日より呈示した仕事に戻るといい。」

   彼はまた、本へと視線を戻した。
   ムシュリカは彼の言葉に驚きを隠せなかったが、言葉の意味を理解した時、

  「・・・承知、しました。」

   と、静かに彼へ返した。

   もう、学ぶ必要はないのだと。
   それはアーサーやサリネ達との談笑の時間がなくなる。
   一時の『人間』らしく居られる時間が無くなるのだ。

  「不満そうだな? そんなに勉学は楽しかったのか?」

   ムシュリカは肯定も否定もせずにクローディアから目をそらした。
   気持ちに正直なのは反応で分かる。

  「・・・・・・・。」

   彼は不機嫌になった。 部屋の落ち着いた空気がひとたび変わった。
   何か言えば良かったのだが、何を言うべきかムシュリカは分からなかった。
   そんな様子に呆れたのか、彼は溜め息をした。

  「アーサルトは既にお前の主ではないだろう。 何故後腐れもなく縁を断ち切る事が出来ないのだ?」

   アーサーを指摘された時、ムシュリカは思考が止まった。
   それは前の主人だからです。 そう一言いえばまだ何か変わっただろう。
   だが、ムシュリカは言えずにいた。

   そんな彼女に構いなしに、クローディアは続けた。

  「それほど私と居る空間が苦痛か? 前の生活に戻りたいのか? それとも、」

   クローディアは、ムシュリカを見つめて言った。



  「私が、それほど恐ろしいか?」



   頭に石を打ち付けられた様とは、このことを言うのだろう。
   彼の言葉は、ムシュリカの一番柔いところを突いた。

   そう。 恐ろしくてたまらないのだ、彼が。
   怖くて怖くて、まともに目を合わせる事も出来ないのだ。
   彼と、どういう風に接すれば良いのか、分からないのだ。

   アーサーとはまるで違う性格の『魔族』。
   もっとも魔族を象徴するかのような性格。

   彼とは関わってはならない。 そうさえ思える。

  「・・・分かりません・・・。」

   そう、言葉を濁すしかなかった。
   正直に答えるのが、怖いから。
   クローディアが誰より怖いから。


   暫く沈黙が続くと思った矢先、それを破ったのはまた彼であった。


  「・・・もういい。 なら今夜、私の自室までこい。」

  「え・・・?」

   彼は痺れを切らしたのか、椅子から立ち上がると手に持っていた本をムシュリカに手渡した。
   今しがた彼が読んでいたものだ。
   本には栞が挿してあった。

  「『アシュラゴ鎮魂歌』の詩だ。 日が暮れるまでに記憶しろ。」

   栞が挟まってた頁を開くと、蔦模様の枠の中に『魔語』の綴りが延々と続いてある。
   どうやら古代の碑文の資料らしい。
   しかも彼はムシュリカに『詩』を願ったのだ。

   『詩』を謳う為に彼の側に置かれてから、初めてその仕事を全うする時が来たのだ。
   漸くきた、本来の仕事だった。


  「お前が求めた答えを教えてやる。」


   彼はそう告げ、図書室から立ち去った。
   ただ一人佇んでいたムシュリカは、急に威圧感のなくなった空間にどっと疲れが湧いて机に臥せった。
   呆とした頭で扉に目を向けて、彼の軌跡を眺めていた。



   *



   深夜、皆が寝静まった後にムシュリカは部屋から出た。
   昼間にクローディアに命じられた事を実行する為である。
   気づかれないように滑るように廊下を歩き、階段を一歩一歩下っていく。
   皆の睡魔は強力に違いない。
   昼間の過重な労働にて、睡眠は一番の安らぐ時である。
   ちょっとやそっとの物音じゃ目を覚まさないだろうが、警戒は怠らなかった。

   特にこの事がサリネにバレたりでもしたら、また色々言われる事が目に見えているのだ。
   夕食の時も彼女に漏らさないよう配慮したつもりだけど、彼女の怪訝そうな目が記憶に新しい。

   漸く出口が見えてきた。
   なるべく音を立てずに扉を開けようと、取っ手に手をかけようとした時だった。


  「こんな時間にどこ行くの?」

   背後の問いかけに、ムシュリカは驚いて上擦った声を出してしまった。
   誰かと思って振り返れば、思った通りの人物。
   彼女は何時から付けていたのだろうか? 全く気配は感じかなった。

  「・・・もう夜も更けている。 この夜間にうろつくなんて危険だよ。」

   ムシュリカを案じてくれているのは分かる。
   だが、自身の安全よりもムシュリカには命令が最優先なのだ。

  「忘れ物を・・・しちゃって。」

  「嘘つかないで。」

   ムシュリカの咄嗟の嘘もサリネには通用する訳もなく呆気なく否定された。
   彼女は幾分か怒りの表情をしているようにも見える。
   嘘を見抜かれた事か睨まれている為か、ムシュリカは黙ってしまった。

  「自覚ある? 『皇太子付き』になってから私に隠し事ばかりしてる。」

   ムシュリカは顔を上げる。
   サリネの怒りの含んだ表情の中、寂しそうな瞳が訴えているような気がした。

  「そんなに私、・・・分かりやすかった?」

   心に軋みがかかる。
   観念して白状したけれど、彼女の表情はいっそう凄んだ。

  「昼間は言えなかったけど、今度こそ言うよ。
   仕事の話も曖昧に避ける事が多いし、最近答えがちぐはぐな事が多い。
   ムシュリカはいつもコソコソ何かしてる。 ・・・今度は何だ?」

   この友人は秘密を多く持つ故に他人から勘違いされやすいが、決して冷たい人間なのではない。
   最近マニカ達の様に仲間を持ち始めたものの、彼女にとっての大切な仲間はやはりムシュリカなのだ。

   サリネは、悔しくてならなかった。
   『身分』という、どうしようもなく高い障害が。
   『奴隷』という、抗い様の無い鉄の鎖が。

   ムシュリカが、いつも純粋な心で付き合ってた彼女が隠し事をしているのがサリネは不安だった。
   ここへ閉じ込められてから曇った顔しか伺えなくなった。

   決定打となったのは今日の昼間、ムシュリカがクローディアの素顔を語った時。
   彼女の顔が一瞬和らいだのを、サリネは見逃さなかった。
   あの得体の知れない何者かが、ムシュリカを知らないどこかへ連れて行こうとしている。
   それが、恐ろしくてたまらないのだ。


  「・・・またあの皇太子絡みなのか?」

   反省したのか諦めたのか、どっちともとれないムシュリカの表情を見てサリネは溜め息を吐いた。
   ムシュリカの小さな体が震えた。

  「どんな命令を受けたんだ?」

   ほんの小さな出来事だろう。
   これから皇太子の部屋へ向かうと語ったとして、彼女が引き止めようとするに決まっているのだ。
   だが、感の鋭い彼女はムシュリカがこれからどこへ向かうのか大方見当はついていた。
   ムシュリカは、『皇太子付き』なのだから。

  「・・・・・・。」


   言えないムシュリカの気持ちを察してか、サリネは何も言わずにムシュリカから背を向けた。
   サリネはとうとう折れた。
   ムシュリカは引き止めようと何処となく手を彼女に向けるが、届く前に彼女は言った。


  「なるべく早めに帰るんだよ。
   夜は冷え込むし、危険な輩も多いんだから。」

   階段を上る直前で彼女は言った。
   疲れとも呆れとも含んだ言葉はムシュリカに温かみを湧かせた。
   そう言うとサリネは頭上に、何かを放り投げた。
   丁度ムシュリカが受け取れる位置まで落ちて、投げられた何かを彼女は見た。
   夏の季節の上着である。

  「ちゃんと返してよ。 それと―--、」

   彼女は振り返って、ムシュリカに顔を向いた。


  「今度からは、ちゃんと言わなきゃ許さないから。」

   彼女は久方ぶりに笑って言った。
   ムシュリカはそれを見て顔が綻んだ。

  「おやすみ、サリネ。」

   お礼の代わりにムシュリカはそれを最後に、寄宿舎を出た。



   *



   皇太子クローディアの部屋に入る前は、誰しも緊張する。
   友人のアーサーにとっては日常茶飯事であるのだが、流石に緊張はしなくなった。
   最も彼は当の前から彼の部屋に居るので、別段今はその緊張は無い。

   彼が今、落ち着きが無い事。
   それは向かって座っている穏やかでない友人の他でもない。

   なぜ夜を好む彼が、ここまでイライラしているのかが理解できないからだ。
   少なくとも昼間と比べればクローディアは夜間、まだマシな態度である。
   なぜ呼び出しを食らい、彼に諌められているような気分になるのだろうか。

  「で、何の用だい?」

   当の皇太子様は優雅に椅子に座り、月明かりの中読書である。
   アーサーの質問を無視しているのか聞こえなかったのかクローディアは何も答えない。

  「僕も明日は予定が切り詰めてて忙しいんですが。」

   彼の偉そうな態度に(実際偉いのだが)、さすがにこっちもイライラしてきた。
   まあ、彼が呼び出した理由など他でもない大した用事ではないのだ。
   要は暇つぶし。
   何らかの用事の前のその場しのぎという事だ。


  「別にお前は来たい時に来ているのだから、俺が呼びたい時に呼んでも構わんだろう。」

   理屈は分かる。
   だがそれで納得する程アーサーも馬鹿ではない。

  「僕の質問に答えろよ! あのな、何の用かって聞いたんだよ!それくらい答えてもいい領分だろう!」

   アーサーは耐えかねて声を荒げた。
   クローディアは目を細めて鬱陶しそうに顔を不快にさせた。

  「うるさい。 怒号など今日聞き飽きた。」

   彼の怒りをものとせずクローディアは適当にあしらった。

  「ムシュリカちゃんの用でもない限り、僕は話す気なんて無いぞ!」

   クローディアの対応に落ち着くアーサーではない。
   だが彼の言い分はまるで幼稚だ。 クローディアも呆れているのかやはり相手にしなかった。
   アーサーがいい加減鬱陶しいのか、彼は適当な理由を言い始めた。

  「ああ。そのお前の言う『人間』の用件だ。」

   ぴたと、思った通りアーサーの動きが止まった。
   面食らった顔になって。

  「奴なら今ここに向かっていると思うぞ。」

  「・・・それはまたどうして?」

   ムシュリカの話題が出たところで、やっとアーサーも落ち着いた。
   彼女がここへ来るという事は、紛う事無き彼の呼び出しを食らったのだ。
   今ここにアーサーが居るように。

  「本来の仕事をさせてやろうと思ってな。 謳わせる事にした。」

   どういう風の吹き回しだろう。
   何故に今日謳わせる事にしたというのだ?
   『人間』など取るに足らないと言っていた彼が。

   確かにムシュリカの稀有な力は彼は評価しえども、歌を望む事など無かったのだ。
   ので、彼が彼女の歌を望むなど恐らくかなり先だと思っていた。
   彼の身に何があったのだろう。
   アーサーは口をポカンと開け、間抜けな顔でクローディアを見た。

  「それはまた・・・何がどういう切欠で?」

   突然すぎる話題だ。
   もはや先ほどの怒りなど吹っ飛んでしまった。

  「昼間に書庫に会ってな。 どうやら、あの女は要らぬ勘違いを持ち続けているらしい。」

   ああ、僕の所為かよ。
   思わずアーサーは頭を抱えて椅子に寄りかかった。
   今日の昼間に、ムシュリカに外出する事を伝え忘れていたのだ。
   しかも一番会いたくないであろうクローディアに出会ってしまったのは運の尽き。
   同情をするしか無いのであった。

  「随分と慕われているな。 一族内での人望が低さが嘘のように思えるが。」

   嫌み、なのだろう。
   余計なお世話だ。 と、彼に一言というと今度はテーブルに突っ伏した。

  「ここでは嫌われ者でも、僕は僕なりの人生設計をそのままに行動してるにすぎないよ。
   だが・・・もしかしてそんな事が切欠か?」

   昼間の出来事までは予測はつかないが何らかの事象が二人の間に起こった事は分かる。
   詳しく聞くつもりは無かったし、クローディアは答えなかった。


  「・・・・・・。」

   彼との会話に無言の時間など付き物なのだ。 アーサーはもう慣れている。
   だが今日は幾分か違って見える。
   その彼の様子にアーサーは一つの答えを言った。


  「やっと聴く勇気がついたのか?」

   クローディアは本からアーサーに目を移した。
   どことなく見開いているように見える。

  「何の事だ?」

   クローディア殿下は多少不快な顔になってアーサーを睨みつけた。
   アーサーはそれに動じず続ける。

  「・・・別に。 お前がいつまでも引きずる奴とは思っては無いさ。」

   彼は大まかな理由を言いたかったが、言うに言えなかった。
   ありのまま言ったら彼は怒るに決まっている。
   その後に来るムシュリカにその火の粉を浴びせるのは、あまりに理不尽だし可哀想だ。

  「それでも ―--望んで彼女を側に置いたんだろう。」

   好奇心、だけではないのだろう。
   なぜならクローディアはムシュリカに何かしらの強い執着が見えるから。
   それを口にする事はなくとも、何が言いたいのかは十分に伝わっている。
   彼は不機嫌なままだった。

  「・・・有り得はしない。 俺はそんなものを信じはしない。」

  「ああ、僕だって同じさ。 ・・・正直そんな事有り得たら、僕は途方も無い事を考えるよ。」

   真にクローディアを理解しうる者は、もうこの世界に居ないのだ。
   彼を崇拝し慈しんだ者は、もうどこにもいないのだ。


  「・・・クロード。 僕は付き合いきれるまで信じるよ。君の事。」

   椅子から立ち、アーサーは出口へと向かった。
   残されたクローディアは不機嫌な顔でアーサーを見送る。


  「そう怖い顔すんな。 これからムシュリカちゃん来るんだから。」

   何が嬉しいのかアーサーは満面の笑顔だ。
   そのアーサーが彼は大変気に食わないのだ。


   彼が扉に手をかけた時と同時に、三度の鐘の音が鳴った。
   噂をすれば、である。


  「・・・ムシュリカです。 入室しても宜しいでしょうか?」

   おずおずと尋ねてきたのは紛れもなく彼女。
   アーサーは、いよいよ声を出して笑った。

  「いいよな、クロード。」

   皇太子様へ了承を取るが彼は顔を背け『勝手にしろ』とでも返事するように本へと目を向けていた。
   満面笑顔のアーサーがどうしても見たくないらしい。





   了(後編へ続く)