ラクシュミ 〜221譜の讃歌〜





     『序章・牢獄脱走』:前  evasione








   『 この世で最も狭く暗い牢獄を私は知っている。

     もっと早く悟るべきだった。

     其処から逃げる方法は無いと言う事に。

     その檻の隙間から出来る事。 それは呪いの『詩』を謳い続ける事。

     それが私に出来る唯一絶対の抵抗なのだ。


     《脱獄 新章》   クローディア・エクリッセ』








   祭暦  0年



   帝都シャクルム  『満の間』






   二人の男が、向かい合っている。
   彼らは国の危機の瀬戸際、今此所で命を奪い合おうとしているのだ。
   不思議な事にそれは同族の中から起こった事であり、多種族との啀み合いの結果ではないと言う事。
   丸で似ていない二人だ。
   クローディアの繊細さや麗しさは、リベリオンには備わっては居らず。
   またリベリオンの濁りと向上心は、クローディアには無縁の物。

  「おかしなものね。」

   クローディアの隣のヴァシュクがクスリと笑った。

  「公には親子の二人が啀み合い、同種族でありながら互いを嫌悪する。
   全く『魔族』と言う生き物の強欲さには呆れを通り越し敬意を表するわ。」

   ヴァシュクはクローディアへの嫌味のつもりで言っていたが、生憎彼は聞いていなかった。


   ムシュリカは知らなかった。
   ヴァシュクは確かにどんな時でも顔色を変えずに淡々と実務をこなし、意見も直接的なものが多かった。
   それは『獣人』であるからとか、本能に直結した考えだからと述べるものも居たけど、
   少なくともいつもは優しく、争いを好まない穏やかな子だった筈なのだ。

   でも今のヴァシュクはどうであろうか。
   心から恐れている筈の『魔族』と共に、皇帝討伐の為共闘している。
   その顔付きはまた無表情とは違う。 それは冷徹だ。
   クローディアのような冷たさと、瞳は殺気を溜め、声はいつも以上に低かった。
   彼女の獣としての本性が露になっている。 獲物を仕留めようとする狩人のように。
   ヴァシュクの言葉に対抗する様にリベリオンは嘲る様に言った。

  「『獣人』よ。 貴様等には理解出来まい。
   王と言うものは誰より非情で、何よりも冷酷でなくてはならないもの。
   其方が本能で余の息の根を止めようとする様に、余もまた本能によってこの王座に就いたのだ。
   これが『皇族』の血の謂れ。 これもまた条理に適った事象なのだ。」

   皇帝リベリオンは、あくまで自分の出来事を理屈が通ったものにしている。
   だがそれで済まされない程、周りに広がっている死屍累々の先刻まであった命を奪った。
   これもまた『魔族』だからという。暴論としか思えない。


  「お前が企む『謀』に、余も混ぜぬとは 一体どんな風の吹き回しだ?
   今までの戦事の案も余に出していたではないか。」

   クローディアは何も答えない。

  「何故今になって余を外す?
   四方や『魔族』への後ろめたさがあったからか? 世界を統率するのに小さな犠牲だ。
   それぐらい替えは幾らでも効く。 今更『犠牲』を出し惜しむのか?」

   彼は何も答えない。
   今までのヴェーダルドの『戦時』も、クローディアが関わっている。
   それを明確にした言葉は、彼も道連れにするという脅迫も含まれていた。
   だが、クローディアはそれでさえ動じていなかった。


  「仮にもお前を隠し庇護した余に仇なすとは、恩知らずも良い事よ・・・。」

  「リベリオン。 一つ聞き忘れて事があった。」

   クローディアの声だった。 彼はこの最中、一体何を忘れていたのだろう。
   皇帝はクローディアの方へ向いていた。

  「そこにいる『元皇太子付き』の事だ。」

   『元』と言う言葉に、ムシュリカは胸が苦しくなった。

  「何故こんな場所に居る。 貴様が呼んだのか?」

   クローディアでも、ムシュリカがこの場に居る事は予想だにしない事だった。
   勿論皇帝たる彼に呼ばれればムシュリカは此所へ来たのだろう。
   ただ、今回彼女が此所へ来たのはあくまで彼女の意思あっての事だった。
   つまらない質問にリベリオンは、軽視した眼でムシュリカを見ながら言った。


  「知らぬ。 勝手に此所へ来ていただけの事だ。
   お前の戯れに何を思ったのかは知らんが、碌な躾も付けてなかったようだな。
   だから態が低いと言うのだ、『人間』は・・・。」

   戯れ。
   彼は、ムシュリカとクローディアの過ごした数年感をそう片付けた。
   傍目から見てみたら、そんな風に見えていたのだろう。

  「そうか。」


   クローディアは、知ったのだろうか。
   ムシュリカは、クローディアを止める為に此所へ来たと言う事に。
   ただそれは彼にとって、余計なお世話に過ぎないものだ。
   そうして残された疑問が解決したのか、クローディアは再び剣を構えた。
   ヴァシュクも合わせる様に、短剣をリベリオンに向けた。



   しかしリベリオンは、ふと低く笑って彼らに向けていた刃を降ろした。
   どうしたものだろうかと、ムシュリカとヴァシュクは眉を寄せた。

  「『クローディア』よ。 既に知っているであろう我ら『皇族』は貪欲だ。」

  「そうだな。」

   『皇族』なのは彼も一緒なのに何を言っているのであろうか。
   リベリオンの言葉は続く。

  「余はその最たる者だ。 此所は余の城、この国は余の域、この大地も余の物。」

   分かりきっている驕りを、何故彼はまた言うのだろうか。
   胸騒ぎがする。 彼の言葉は続く。

  「其方達も余の国の中の駒。 その命とて余のものだ。」

   言いがかりだ。とんでもない言いがかりだ。
   『国の為に死ね。』『王の為に死ね。』、それらは聞こえは奇麗だ。名誉な事だろう。
   だが王は、無知すぎる。 ムシュリカ以上に『人』を知らなすぎる。

  「全て、 余の物だ。」

   彼はこの冷えきった世界の住人で、これが彼の真理で、この倫理は当たり前なのだ。
   何を言っても通じない。 彼は他の言葉から耳を塞いでいる。
   クローディアは、彼の言葉に段々と意味が分かって来たようで眼を細めた。

  「クローディア・・・。 お前如きに我が命渡す訳にはいかぬ。」

   彼は、再び剣を上へ掲げた。
   月の光に反射している刃は、美しく研がれてある。
   光が彼の剣に集まっている感じがした。
   刃の先は、クローディアに向かった。


  「余の命とて、・・・余のものだ!!」

   彼の猛り声が、部屋いっぱいに放たれた。



   *



  「これはこれで面白いのかもな。」

   城の門前は、皇族を責め立て続け非難する国民達で溢れ返っていた。
   今まで、やれ万歳と賛同していた者達が何を言っているのだろう。
   『信じた方が悪いのだ。』
   『魔族』はそう言うのだろう。 正論だ。
   信じたツケが此処で返ってきたのだ。 信じなかった者を散々罵倒した癖に。

   黄昏が過ぎ、街が静まり返りポツポツと灯籠が点る頃合いに突如としてそれは起こった。
   見張り塔の灯籠の所為で城の下はハッキリと見えないが、声の数からして恐らく数百を超える数。
   『捕虜』達や女子供も一同に片手に松明や武器になる物を持ち、怒号を飛ばしている。
   城門の様子を高台から眺めると、蛍が群がって集まっているかの様だ。
   見納めになるヴェーダルドの景色は、どうにも今宵は格別美しく見えた。
   今までこの国を奇麗だと思った事が無かったから、そう思う自分が不思議だった。


  「帝国最後の夜か・・・。」

   サリネは、肩を落としてアーサーに言った。

  「あんな短時間に、どうやって国中に触れ回したんだ?」

  「なに・・・良い情報通が居てくれてね。 良い具合に皆に広めてくれたらしいな。
   これなら騒ぎも暫く収まらないだろう。」

   サリネの後ろに控えていたアーサーの眼が、灯籠に照らされて妖しく輝く。
   アーサーはクローディアと別れた後、さっさと行動に移ったらしい。
   その行動力をいつも発揮して欲しいものだが、今は言うまい。

  「お前も酔狂だな。 何が楽しくて自分の地位を格下げしたいんだ?」

  「惜しいとは思っているんだけどね。
   でもそんな物があるから理不尽に恨まれ続けるんだし。
   かく言う僕も『魔族』は嫌いだし、彼の言う様に『壊したい』と思ってたんだろう。

   それに、」

   自分自身の種族が嫌いと矛盾した理由だが、アーサーは確かに自分の血族達を呪っていたのだ。


  「僕だって、この国が大嫌いな訳だったし。」

   自嘲に似た崩れた笑顔で、下方の群がりに向かって吐き捨てた。
   少しだけそれが悔しいらしい。
   態々自分を貶めたいとは可笑しいものだが、国を変える者とは総じてそういう者が多いらしい。
   エンディオを思い出しながら、サリネは思った。


   アーサーは名残惜しそうに自分の館であった場所を眺めた。

  「ご覧よ、あれ。 僕の家。」

  「ああ、良い燃えっぷりだ。」

   必要が無くなったから、燃やしたらしい。
   自分が生まれた家ではあるが、もう寝床が不定期な場になる以上お荷物となったのだ。
   別段悲しいと言う訳ではないが、アーサーの眼は虚ろだった。

  「『皇族』は終わる。 それでも残った『魔族』達の保護を続けなければ成らなければならないのが、
   僕の最後の大仕事かな・・・。」

   彼は、神の血『皇族』の眷属である『魔族』である。
   アーサーも只では済まされない。

   だからけじめとしてすべき事は多くある。
   それら一つ一つを終えた所で、やっと彼の仕事が終わるのだ。
   少なくとも次代の子供達の為、もっと分かち合いのある世の中になる様に。

  「お前の所の『捕虜』達はどうしたんだ?」

   主人の屋敷が燃えて、さぞ悲観しているのではなかろうか。
   アーサーの答えはあっさりしていた。

  「事実を知っている者は皆マフナタリスの協力者だったしね。
   彼らは特務をこなした訳だし恩赦として『帰還』を。中には『反乱軍』にも回ってる奴もいるし各々だな。」

   全員『自由』という、いい加減な形にしてしまったらしい。
   もうこの国に『捕虜』は必要なくなるのだから、戦渦に巻き込まれる前に逃がすのが一番良い。
   ようやく手元の『捕虜』達を『個人』に戻したのだ。
   主人であったアーサーに怒る者もいれば感謝をする者も、そして立ち去って行く者もいる事だろう。
   その内彼の命を狙う者も現れるだろうし、彼は以前よりよっぽど酷い生活に成るのは分かっている。
   ただ、アーサーはそれら全てを受け入れるつもりだ。

   サリネは、ふと思い出した。 自身が未だ、彼の補佐である事を。


  「・・・私がまだアンタの尻拭いしてるのに?」

   アーサーは笑って答えた。 余計に腹が立った。



   *



   停電の所為でエレベーターが使えないのなら、階段を使って下へ降りるしかなかった。
   もはや城の陥落も近い、どうにかして脱出しなければ全滅は確実である。
   その中、大怪我をしたエンディオの肩を持ち歩くのは骨が折れた。
   彼の巨体を、ムシュリカの華奢な身体で支えられる訳が無かった。
   二人の遅い歩行に見てられずにヴァシュクも手伝ってはいるが、大して変わりはしない。

   この怪我は、エンディオはその身体でムシュリカを庇った為のものなのだ。
   ここで自分も身体を張らないで、どこで彼を救うと言うのだ。

  「エンディオさん。 しっかりして下さい、後もう少しで出口です・・・!」

   励ましつつエンディオの精気をつけようとするが、彼の怪我は確実に悪化していった。
   それをエンディオ自身が、分かっているのだ。

  「あぁ。 ・・・ありがとよ、ムシュリカさん。」

   掠れた声で、彼は苦し紛れに笑顔で言った。
   ムシュリカも少しそれにホッと溜め息をし、再び前へ進んだ。


  「休んでいる暇は無い。もっと早く歩け。」

   クローディアは相も変わらず手厳しい。
   『魔族』の一人の筈なのに、自らの『皇族』の滅亡に憂いは感じないのかと不思議でならない。
   悲しみも不安も彼には無いのかと、時々不気味に思うのだ。
   『魔族』と言えど、感情はある。 アーサーやエンディオと触れ関わってから、いつもそう感じるのだ。

  「皇子様。 私は・・・。」

   もうムシュリカは、クローディアの『物』ではない。
   今この二人は、赤の他人なのだ。
   その証拠にクローディアは先程から眼を合わせようとしない。

  「とにかく進め。 城は既に包囲されてある。
   『闇喰鳥』、地下水路の経由の案内は頼んだぞ。」

   ムシュリカを無視して、クローディアはヴァシュクに命じた。
   ヴァシュクは返事はせずとも元々の予定内の仕事だった上、率先して彼らを案内した。

   悔しくなった。
   数年も一緒にいながら、もう彼はムシュリカを見ていてはくれないから。
   勝手に王の間へ言った事を咎めないのか。
   罰するなら今罰して欲しい。 規則を破った事は確かなのだから。
   追々責められるにしても、それが来るまで心苦しくて仕方が無かった。








   皇帝の刃が月に照らされ鋭く光っていた。
   そしてその刃先は、


   他ならない彼自身だったのだ。

   彼は自信の胸に剣を突き立て、命の決着をつけた。
   呻きながら一気に剣を引き抜くと血が溢れ、彼も血を吐きながらその場に倒れた。
   その壮絶な瞬間に全員が眼を開いたのに関わらず、ただ一人クローディアは平然とリベリオンに近づき、眼を細め彼を見下した。

  「これも、予想の内と言う事か・・・? のぉ老害・・・。」

   勝ち誇った、そんな声だ。
   巨大な鴉は薄ら笑いを浮かべて頭上クローディアを見た。
   クローディアの眼は、まるで汚い物を見るかのような嫌悪に満ちたものだった。

  「『人間』を蔑視する『魔族』、『魔族』を見下す『皇族』。
   遥か上に立つ貴様でさえ、『世界』の異物でしかなかったのは皮肉な事だな。」

   『世界』が彼の死を望んだ。
   しかしそれは、誰かが手を下してこその事だった。
   追いつめられたリベリオンは、『世界』への最後の抵抗として命を我が物とするしか勝つ方法がなかったのだ。
   これが彼の勝ち方なのだ。 結局犠牲を出す方法しか、彼には無かった。

  「『異物』か、それも面白かろう。 だが『恩知らず』、異物はお前も変わらんぞ?」

   その時初めて、クローディアの表情が変わった気がした。
   リベリオンは息を切らせながら精一杯の言葉を絞り出す。

  「お前がどこへ向かおうと、地の果てまでお前の『世界』など何処にも有りはしない!!
   過去にも今にも、未来永劫にだ!  忘れるな!! お前はいつか後悔する!」

   高らかに彼は笑う。 死の直前の笑い声は、悲鳴にも近い音だった。
   聞く度にどんどん心に重しがかかるようである。
   ムシュリカは、彼は死ぬまで『孤独』だった事に気がついた。
   周りはいつも敵だらけだったから。 奪うか犠牲を取るしか、リベリオンは知らなかったのだ。
   誰も信じていないのだから。

  「心身共に獣のような貴様に何を言われようと負け惜しみとしか思えんな。」

   お前が侮蔑する『獣人』以下だ、と続けた。
   目の前にヴァシュクがいるのに何て事を言うのだろう。
   だがその当人は気にするでも無く、皇帝の死に際を虚ろな眼で眺めていた。


   皇帝は見た限りで手の付けようが無い。
   応急処置を施した所で苦しませるだけにしかならないだろう。
   止めを刺して楽にさせるのも良かろうに、クローディアもヴァシュクもしようとしなかった。
   態としないでいる。

   彼の息が先程より大分ゆっくりと繰り返されている。
   何時かの闘技場でエンディオと対峙した龍の事を思い出した。
   あの『闘戯大会』の龍と同じ虫の息。 もう、彼も『近い』。


  「・・・忠告しよう『クローディア』。
   お前が足掻いた所で、お前が探し求めている物など、この世の何処にも無い。

   途方も無い世で、永遠の迷宮を彷徨い、絶望するお前を、必ず天から・・・必ず・・・。」



   彼の、息が止まった。
   『笑ってやる』と言いたかったのか。 彼の死に顔は、酷く歪んだ笑顔だった。
   強欲な彼らしい生き様で、欲望深き死に方だった。

   一つの命が消え入ると、その場はエンディオの呼吸が静かに響いていた。
   その空気に音も消え入りそうな中、クローディアは彼の遺体を見下ろしてそっと呟いた。


  「せめて命くらいは国に捧げる事も出来んのかリベリオン。」


   失望をこめた、別れの言葉だった。






   皇帝の最後の言葉は訳の分からないものばかりで、
   二人にしか分からない様な、家族の会話とは違うのは分かった。

   ただ、まだ秘密が多く有り、頑に隠し続けている。
   でも、悔しくて仕方が無かった。
   ムシュリカは、クローディアを信じ続けていたから。

   皇子は皇帝リベリオンが死んだ後、何一つ語らずその場から全員を立ち去らせた。
   皇帝の死骸をそのまま放置しておいていいのか迷ったが、城の事態を考えると仕方なしと思った。



   そして、漸く地下水路まで辿り着いたのである。
   クローディアとヴァシュクにとっては、ほぼ予定通りの事柄なのだそうだ。
   確かにこの水路ならば、亡命するのなら絶好の逃げ道である。
   薄暗く別れ道や出入り口も数千とあるこの路は、一度立ち入れば牢獄と同じ。
   理解も記憶も困難なのだ。


  「ここは結構入り乱れているから、入って来ようが追いついては来れない筈だよ。」

   此処から安心して、足を進めて良いと言う事だろうか。
   少しだけ肩の荷が落ちた。


   ただ、皇帝が死んで元老院も抱囲され、『魔族』が追いつめられている中、何もせずに逃げるのは忍びない。
   本当にこれで良いのだろうか?
   このままでは皇子たるクローディアは『売国奴』か『凶人』の烙印を押されるのかもしれないのに。
   その皇子は残す物を顧みる事も、国への執着も無く、さっさと自国を出ようと準備を進めていた。

   ムシュリカは『皇太子付き』では無い、もう一個人なのだ。
   先程のクローディアの反応から分かった事ではないか。
   もうこの皇子の無理難題にも付き合う必要などないのに、どうして一緒にいるのだろう。


   ムシュリカは、足を止めた。

  「サリネ、・・・アーサーさん。」

   前に居たのは、あの二人だった。
   クローディアの計らいであるのだから、アーサーが知らない筈無いしサリネも承知なのだろう。
   サリネはムシュリカに近づいてきた。

  「アーサーから聞いた。 皇帝に会ったんだってね。」

   いつの間にそんな話が届いたのだろうか。
   クローディアは報告する暇なんて無かった筈だ。

  「嫌なもの見たんだね。 顔が真っ青だよ。」

   そうだったのか。
   鏡と言うものを見ていなかったが、ムシュリカの顔は確かに蒼白に近かった。
   凄惨な現場の次に、皇帝の自刃を目の当たりにしてしまったからであろう。

  「もう大丈夫。 後はヴァシュクと一緒にここから出るだけだから。」

   宥める様にムシュリカの背を撫で、励ます言葉で元気付けようとしているのが分かる。
   何が大丈夫なのか。
   だがそれでも『満の間』で起こった事を忘れるなんて出来ない。


   先ほどからある自分の中の有耶無耶とした苦い気持ち。
   サリネが言った事で気がついた。 ムシュリカは完全に除け者にされていた事を。
   いつの間にか、ムシュリカは一人だったのだ。

   ムシュリカの顔が、一段と険しくなった。
   彼女は垂れた頭をもう一度上げて、クローディアを見つめた。
   それに気づいたクローディアは、彼女に向かい振り返った。

   無言の訴え。
   だが言わなければならない事がある。

   ムシュリカはハッキリと言った。



  「納得できません。」


   この非常事態の中、ムシュリカはクローディア達の作戦を真っ向から『否定』した。
   アーサーとエンディオはムシュリカの言葉を聞く度、一切の無表情の顔になった。

  「何が、だ?」

   伝えるのは怖いことだ。
   それでも今、クローディア達に言っておかなければ後で後悔する気がするから。

  「貴方達『魔族』は、やっぱり自分の事しか考えていない。
   革命するしかないなんて、・・・あなた達の意見でしかない。」

   もっと早く気づくべきだった。
   この話には、『人間』も『獣人』も関わってはいない。
   これは国を担う彼らが、国を憂いた彼らが、勝手に思い込んだ非常事態だ。


  「この国に内戦を起こす。他国の介入で強制鎮圧させる。
   死ぬのは此処に住んでいる国民自身なんですよ。
   それが『犠牲』だからって、それが『世界』の在り方だって、争い事で解決しようなんて・・。

   それじゃあ、皇帝陛下と同じじゃないですか!!」


   結局、クローディア達は先人達と全く変わらぬことをしているのだ。
   同じ事を繰り返して変わると信じ続けようと、結局また同じことが起こるのだ。


  「ムシュリカちゃん・・・。 君の言い分も分かるよ。でも僕らは・・・、」

  「皆、知らないままなんですよ?」

   アーサーの言葉を遮ってまで、言わなければならない事。
   それは残された者たちの処遇。

  「無知は罪だ。 知る事を求めない方に非がある。」

   クローディアは言い返す。 だがムシュリカも言葉をとめない。

  「それで、何も告げずに逃げるのですか?
   知ってますか? 『捕虜』達には何も知らされていないんです。
   私だって城に来る前まで、国の事や『魔族』達のことなんて何も知らなかった。
   知らせてくれなかったからです。」

   限られた情報の中で、限られた時間の中でしか生きることが出来なかった。
   だから国がどうなろうが、皆は『魔族』を称え続けることが出来たのだ。
   それが唯一絶対で、縋るべきものだったから。
   それが修復が出来ないほど粉々に崩れてしまったのだ。
   ムシュリカの目尻から、涙が溜まり始めていた。


  「『捕虜』として生まれた者だって、帰るべき『故郷』を知らない者だっているんです。
   生きる世界が『捕虜』しか無い者は、私達は・・・一体どう生きていけばいいんですか!!」

   ムシュリカの言い分を、クローディア達は静かに聞いていた。
   ムシュリカも、『捕虜』生まれだ。
   亡くなった母や父が住んでいた故郷の名前を知っていても未だ想像するしかない。
   本を読んだって人伝で知ったって、『知らない』のだ。
   生きていく術は、『捕虜』の中でしかなかったから。


  「私達から奪ったのは貴方達なのに!!
   今更解放したって、生きていけない者だっているんです!! どうか・・・!!」


   戻って。 救えない者を、どうか支えてあげて下さい。
   皇子様がまた、この国を作り直してください。

   言葉は涙で溢れて、伝えきることが出来なかった。
   ムシュリカはぐずりながら、涙を袖で拭った。
   震えるムシュリカの方をサリネはそっと触れて摩った。

   アーサーは考えるような素振りだったが、結局残酷な現実をムシュリカに突きつけたのだ。



  「知ったことか。」

   クローディアは、背を向けてムシュリカに言った。
   一瞬びくっとしたが、肩の振るえは止まった。


  「『人間』や『捕虜』の生き方も、『魔族』の『罪』も、  俺には関係ない。
   俺は、『魔族』でも『人間』でもないからだ。

   お前らの都合も、この国の都合も、 其処にある一つの『事象』に過ぎない。
   壊れようと構築しようと、俺はただの傍観者なだけだ。」


   今までも、そうであったのだろうか。
   なぜなら彼は公の場に出ることがなかった。
   責任も、後悔も、共同も、
   彼は関わることがなかったから。
   


  「それでも・・・貴方だって、 今まで『魔族』だったんでしょう!!」

  「どうあったって、俺は『魔族』とは違う。 それに」


   『既にお前は、俺とは無縁だ。  他人のお前に俺を咎める筋合いは無い。』



   彼の言葉が、悔しくて悲しくて仕方なかった。
   その一つ一つに、底知れぬ『怒り』がこめられてあった事が、何も言い返せなくなった。

   彼も、入りたかったのか。
   強欲で、傲慢で、救いようのない世界の中に。


  「・・・おい皇子。 そんな事言っている場合じゃないだろう。」

   サリネはムシュリカが泣くのに耐えられなくなって、言葉を搾り出した。
   同じ気持ちではあったが、クローディアの言い分の納得している所もあった。
   だからこそ、そんなことを認める自分が嫌で堪らなくて、堪らなくて仕方がなかった。


  「ああ。 僕らは早くこの国から脱出しよう。
   出なければこの通路の存在に気づき、追いつかれる可能性がある。」

   アーサーも焦っていた。
   最前線にいるヴァシュクも、無表情だが首を縦に振ってハッキリと誘導を急かした。



  「ムシュリカさん・・・。」

   この非常時の中、隣にいるエンディオは苦しさを忘れ真っ直ぐに彼女を見つめた。
   ゆっくりと顔を上げ、赤くなった目をエンディオに向けた。


  「クロード様、アーサーさん。
   俺にほんの少しの時間を下さい・・・。」

  「エンディオ・・・だから時間は、」

  「それでも何か言わなけりゃ、この人は頑として動かんだろう。 頼む・・・。」

   彼は弱っている。
   クローディアとアーサーは彼の言葉の意味を知ると、彼に同意して彼の願いを受け入れた。
   エンディオは、壁にもたれ掛かるとムシュリカに言った。




  「アンタは、 正しい。」


   彼は確かにそう言った。
   ムシュリカの言葉に異を唱えたクローディアと違い、肯定し受け入れていた。



  「アンタは・・・アンタの言い分は、正しい。
   寄る辺の無い者達を放っておく事は本当だ。 生き方を知らないものもいる。
   そんな人たちを見捨てて、・・・国を壊そうとしている俺達は大馬鹿野郎だ。」

   エンディオはあくまで認めている。
   アーサーも同意見なのか、目を伏せてムシュリカから顔をそらした。
   馬鹿なことなんて、皆知っている。


  「俺はどっちも同胞だからな。 見捨てるなんて真似したかねぇよ。
   アンタにあんな事言っておきながら、結局何が正しいのかハッキリ分かっちゃいないのさ。
   ただ、俺はよ・・・どっち側にも居られやしねぇから、クロード様の言い分も否定出来ねぇんだ。」

   エンディオも、一つに居るなんて事が出来なかった。
   『人間』であり続けようとする事も出来ず、『魔族』たる血を否定することも出来ず、
   どっちに心を休めることが出来なかった。


  「アンタの言葉は、確かに正しい。
   だが現実の前になると、それを貫き通すことが難しくなる。 現に、・・・俺は諦めるしかなかった。」

   彼は国を思うが為に、『満の間』で同胞と部下を斬った。
   心が痛まないわけがない。
   ただそれでも国と時代がより良くなるなら、どちらかを諦めるしかなかった。


  「俺は、『駄目』なんだ。ここで折れてしまったんだ。 剣を最後まで握ることが出来なかった。
   『クローディア』に縋って、身を委ねた。」

   彼は『盾』となって、ムシュリカを守り通した。
   エンディオがクローディアから命じられた事。

   『皇帝を止めろ。方法は任せる。』

   だからエンディオは、クローディアの正しさも受け入れた。
   クローディアのする事に疑問はあれど、辿り着く先は同じと感じたから。
   だから彼は剣を捨てた。
   剣士としての魂をクローディアに捧げようと身を呈して。


  「アンタにも信ずるものがあるんならもう少しだけ、あの人を見守ってほしい・・・。
   信じて欲しいんだ・・・。
   今あの人がやっている事が非道でも何でも、 それはこの国が選んだ事だから。」

   苦しさの混じった不器用な笑顔で、彼はムシュリカに言った。
   その笑顔が悲しくなった。

   結局ここにいる誰も、クローディアを止めようとしないから。
   アーサーもサリネもヴァシュクも、クローディアの意見を受け入れたのだ。
   『革命』で国を立て直して、『犠牲』を出す道を選んだ。


   何でこんなことを、頼まれているのだろう。
   何でまだ助けようと、必死なのだろう。
   エンディオさん、私はそんなに強くも前向きでもない。
   それでもまだ皇子様の傍にいられるのか、不思議なくらいです。
   捨てられて、近づこうとしても避けられて、こんなに嫌われているのに。
   私は、どうして諦めきれないのだ。


   城に入りたての頃と同じように、逃げ出したいいっぱいの気持ちが甦って来た。
   今のエンディオには覇気も闘気もないのに、とても怖くてたまらない。

  「ムシュリカさん・・・。 決めるのは今じゃなくて良いんだ。
   クロードさんが皇太子といわれなくなっても、世の中から放り出されても、
   それでも・・・、

   あの『クローディア』を、生きている者の一人として認めれるなら。
   アンタなら、大丈夫だ。」

   言わずもがな、クローディアは元々生きている人じゃないか。
   だが言っている意味がそうでないことは承知だった。
   エンディオの血に塗れた手にそっと触れて、両手で包んだ。
   ムシュリカの手は、カタカタと震えていた。


  「ああ。 アンタも生きた『人間』だ。
   たくさんの『痛み』を知っている。多くの『恐怖』を知っている。
   この中で一番残酷さを知っている、『人間』らしい『人間』だ。」

   それは真実だ。 卑怯で弱い。 一人では何も出来ない。
   ムシュリカは『人間』だ。


  「結局・・・。『クローディア』をどうかするなら『人間』のアンタが教えてやるしかねぇんだ・・。」

   前にも、クローディアに似たようなことを言われた。
   『お前にしか出来ないこと』だと。

  「『クローディア』を止めるのは今じゃない。 ただ、その時は必ず来る。
   今は目の前に起こる事を黙っている事になるが、苦しいだろうが耐えてくれ。」

   私がやっても良いのだろうか。
   失敗ばかり繰り返す、頭の悪い私が。


  「だからこそ、後は頼んだぜ。 ・・・お嬢さん。」



   汚れていない左手で、エンディオはムシュリカの頭をなでた。
   ムシュリカは、もう泣いていなかった。
   表情は暗くて目は未だ赤かったけど、涙は止まったのだ。
   ムシュリカの気が落ち着いたのがわかると彼はため息をこぼして、サリネを呼んだ。
   二人の会話は聞こえていなかったが、どんな話をしたのかは分かっている様だった。


  「もう、いいんだな。」

  「ああ。 ムシュリカさんも大丈夫だよな?」

   ムシュリカは複雑そうな顔をしていたが、うなずいて返事をした。
   サリネは憔悴しているムシュリカに代わって、エンディオに肩を貸した。
   『重い。』と悪態をついていたが、サリネの気持ちも汲み取ってエンディオは『悪ぃな。』と言うだけだった。
   二人の話が終わると、ムシュリカはクローディアとアーサーの元へと寄った。
   ムシュリカがこの状態なので、何も会話はしていなかったようだった。


  「・・・ムシュリカちゃん。」

   『大丈夫か』と問う代わりに、アーサーは聞いた。
   それに対するムシュリカ声は、俯いていたがハッキリと届いた。


  「お時間を取らせました・・・。」

   肩が震えていた。
   アーサーはそれに触れようと思ったが、思い止まって手を下ろした。
   触れたらムシュリカが壊れる気がした。 そんな訳ないのにそう思ったのだ。


  「まだ・・・同意できるほど皇子様の意見を肯定できません・・・。 でも・・・、
   私も、貴方達と行きます・・・。」

   拳を痛いくらい握り締めた。




  「この国を、出ましょう。」

   ムシュリカの声は、全員に届いた。
   悔しさに満ちた悲痛な決断だった。


   『人間』の同胞を見捨てる事を、認めた瞬間だった。
   それは、帰れるか分からない旅の始まり。




   (中編へ続く)