ラクシュミ 〜221譜の讃歌〜





     『序章・牢獄脱走』:中  evasione







   *








   祭暦  0年



   帝都シャクルム  『シャクルム宮殿旧地下水路』






   ムシュリカはハッキリと伝えた。
   その言葉を全員は認めたけれど、嬉しそうな顔は誰一人としなかった。
   何せ国に帰って来れるかどうかも不明虜な旅になる。追っ手も刺客も彼らの前に立ちはだかる事になる。
   この反乱に一切無関係だった者がそうするしか無い選択を選んだのだ。

   遣り切れなさが募った。底知れぬ罪悪感が彼らを苦しめた。
   それに臆さずにムシュリカと見つめ合っていたクローディアを除いて。
   彼は元凶だから、いつでも起こる事全てを受け入れるつもりなのだろう。
   だからこそ、言うべき事が有る。彼に釘を刺しておかなければならない。
   でなければ、また仲間を見捨てる事になる。


   クローディアは背を向けて、再び足を進めようと歩き始めた。
   が、その足は直ぐに止まった。


  「皇子様。」

   ムシュリカの沈んだ、ハッキリと通った声が聞こえてきたからだ。
   クローディアも無言で振り返って彼女の険しい顔を見た。
   軽蔑しているのだろうか。
   皇太子の隣にいるアーサーはムシュリカと目を合わせられなかった。

  「今度は何だ? 長話はもう、うんざりだ。」

   黒幕でもあるお前が何を言えた立場だ。
   一人も彼にそう言える者はいなかった。
   彼女はただ誓って欲しいだけだった。
   今度こそ彼にも責任を持てるように。

  「これだけを言わせて下さい。 どうか・・・。」

   例えそれが、クローディアに永遠に隷属され続ける事になろうと。


  「どうか・・・。」

   なかなか言葉に出せないでいた。 彼を更に追いつめてしまう気がしてしまって。
   クローディアも焦れったさを思った時だった。




  「ジェリーベル卿!御無事でしたか!」

   一人の兵士が、それも『反乱軍』の紋を備えた者がアーサーの元へ駆け寄った。
   行き先の方向から兵士がやって来ている。それは出口へ近づいてきている何よりの証拠だった。

  「ああ、彼女達のお陰で僕は無傷だ。 それよりも国境付近の状況はどうなってる?」

  「既に我が隊の三割が帝国兵と衝突しました! このままでは此処にも追手が!」

   出口の安堵も束の間、城の外に居た者は此処へ逃げ込んでいる事に気がついたらしい。
   不安を隠せないムシュリカはサアッと冷や汗を流した。
   何せ此処にいる全員の足を引き止めたのは、ムシュリカなのだから。
   それを落ち着かせるようにサリネはポンと肩を叩いた。
   こんな状況下、仲間と言う存在は何より心強い。

  「なんとか時間を稼げないか?」

  「残りの兵士は既に帝都に待機していて、今からでは・・・。」

   アーサーは額を抱えると、険しい顔で溜息をした。
   『無事だ。』『逃げられる。』とは言ったものの、かなり追いつめらた状況というのを確信した。
   全員が、息を飲み込んだ。

  「ここは、私と後から来る同志とで乗り切る他ありません。」

   数人で覚悟するしか無いという事か。
   思わず最悪の状況を想像してしまう。
   嫌だ。そんな事になりたくない。

  「ムシュリカちゃん。 今は逃げる事が優先だ。
   クロードに何か言いたいのは解るけど、少しの時間も惜しいくらいだから・・・。」

   アーサーが冷静に諭す。
   ムシュリカも、それは解っていた。
   だが、クローディアの傍にいられるのはもう是きりなのかもしれないと思ったら、


  「今、言わせて下さい。」

   こっちだって、時間が惜しいのだ。
   ムシュリカは遠回しに尋ねる事を止め、直接クローディアに問うた。



  「どうか約束して下さい。 必ず、この国へ帰ってくると。」

   『何年かかっても、どんなに災難に遭っても、
    きっとこの国の土をもう一度踏んで下さい。』

   何故そのような事を言うのであろうか。
   彼は無責任な事をしでかしながら、この国を見捨てるというのに。
   彼自身、彼女の言葉は驚きであった。

  「なぜだ?」

   『売国奴』同然のクローディアに、そんな事尋ねるのは間違っているのではないのか?
   事実クローディアはこの国を捨て二度と戻らない。 彼自身もそう決めていたのだから。


  「ここは貴方の国で、貴方の故郷です。
   還るべき場所はこの『ヴェーダルド』。
   貴方を信じ待っている人が大勢いる。 『クローディア』を知っているのはここにいる人達だけだから。」



  『いつだってこの国の人は受け入れてくれる筈。
   溢れんばかりの『赦し』と『慈しみ』をもって、この国の人に『冀望』を持たせてほしいから。
   貴方が、『皇子様』なのだから。』



   クローディアは何も答えない。
   無理もない。 ムシュリカは今は『皇太子付き』では無いのだから。
   皇子の彼に何を聞こうか問おうか、そんな権利は無いのだ。


  「答えてください。 ・・・皇子様!」

   権利なんて関係ない。 彼の意思をただ知りたいと思った。
   クローディアに無視されるのは、もう嫌だった。
   これまで彼は何も取りこぼさずに、ムシュリカの話を聞いてくれてた。
   それが今『無い』のがとても嫌だった。

  「皇子様!!」

   声を上げてクローディアに追求した。
   しかし彼はムシュリカを背後に、歩き始めたのだ。
   まるで、見捨てていくかのように。



   その時、
   風のような鋭い音がムシュリカの後ろで通り過ぎた。
   重い物が地に倒れたような音と、共に鋼がぶつかり合う音が反響して聞こえる。
   人の悲鳴や荒げ声と共にそれは確信に繋がった。


  「まずい! もう追っ手が!」

   帝国兵の情報網は素早かった。
   それは城仕えしているムシュリカ達がよく知っていた。
   だからこそ侮りすぎた。

  「こんな狭い場所での混戦は、ジェリーベル卿方の逃走路に障碍が・・・!!」

   ムシュリカの背筋が凍り付いた。
   『怒号』『悲鳴』『足音』が追いつめていく。『怖い音』がこっちにやって来る。

   先ほどの『満の間』での惨劇を思い返す。
   私もあのように斬られるのだろうか。 痛くて苦しい傷を背負いながら、
   『殺されて死んでしまうのだろうか』。
   ムシュリカは傍にいたサリネの手を強く握った。サリネもそれに応えてか握り返した。

  「ああ、急ごう。 時間を掛け過ぎた。」

   アーサーはエンディオの方へ近づくと、彼の片腕を首にまわして背負った。
   エンディオは大層驚いていた。

  「アーサーさん・・・。 俺ぁ―――、」

  「エンディオ。 君は僕達『魔族』と『人間』の抑止力になる者だ。
   断ち切れそうな僕たちの関係性を、君がまた繋いで欲しい・・・だから、」

  「・・・見捨ててください。」

   エンディオはハッキリと応えた。
   一瞬だけその場に沈黙が訪れたが、アーサーは無視して歩を進める。

  「『見捨てない』ぞ。 僕はもうこれ以上失うわけにはいかない。」

  「こんな体たらくだからアンタ達の足を阻めてしまう。
   『足枷』だけになるのは死んでも嫌だってことは、アンタがよく知っているだろアーサーさん。」

  「聞こえないな。 僕は君も連れて行くって言っているんだ。」


   エンディオが足手まといになっているのは本当の事だった。
   深手の負傷で歩く事もままならなくなっている彼を背負いながら逃げるのも限界に近いという事も。
   けれどアーサーは認めたく無かった。

  「・・・アーサーさん。 見てみろこの体たらく。
   今の俺は他人の手を借りなきゃまともに歩けねぇ様だ。
   こんな状況下、第一に考えなくちゃなんねぇのは他人じゃ無ぇ筈だぜ?」

  「僕だってカッコつけたい訳じゃない。 僕も『強欲』なんだ。
   『自分』が死ぬのは嫌だ。『国』を失うのだって嫌だ。『仲間達』を手放すのだって嫌なんだ。
   もう何だって、手放すものか。」

   アーサーの言葉は重かった。
   だが、それ以上にエンディオと現実の前に無力だった。

  「見捨てろよ!惨めにはなりたかないんだ!!」

  「置いていけ。それ以外に術があるのか?」

   アーサーの行動に耐えられなくなったエンディオは声を荒げた。
   クローディアもアーサーを諭すが彼は全く聞こうとしなかった。
   それどころか彼はクローディアに掴み掛かったのだ。


  「お前もいい加減にしろよ!!
   他人事だと思って普通に言っていられるんだろうが、俺達は『生きる』方を最優先にしているんだ!
   自尊心を優先に『死ぬ』なんて、今まで犠牲になってきた者達への冒涜だ!!
   お前も―――、!!」

  「なら、こいつの『魂』を殺すか?」

   ピタとアーサーの動きが止まった。
   顔を俯かせて酷く困惑し、両手は震えていた。

  「『生きる屍』を連れて歩きたいのなら、別だが。」

   言っている意味が解った。彼の縋るものが『剣士』としての生き方なのだ。
   エンディオには最後まで近衛兵隊長としての務めるつもりなのだ。
   だって彼を助けたとしても、今後『足手まとい』と思い知らしめる方が残酷だからだろう。
   騎士としての『魂』は立ち所に砕けてしまい、立ち直れるかどうか分からない。

  「だがっ・・・僕は、・・・僕はっ!!」

   諦めがつけられない。見捨てるなど出来なかった。
   なにせ彼が怪我をした要因もムシュリカにあるのだから。

   『悪ぃな、皇子様。』と、困った笑みをクローディアに浮かべると彼は呆れてため息をした。
   アーサーの悔しそうな顔はサリネにも移っていた。
   エンディオとともに抜け出す事の出来ない悔しさが募った。


   ムシュリカに名案が浮かんだ。
   今は『皇太子付き』ではないのだから、彼らに続いて国から出立する必要など本来無いのだ。
   誰に命令をされる事も無く、自らの意思で行動が出来る。

   ただ、二度とクローディアとは会えないのかもしれない。
   しかし考えている暇など無かった。 口が勝手に動き出した。

  「ここは、私が残って―――!!、」



  「やっと見つけた。」

   一転した明るく高い音。 場にそぐわない嬉しそうな声。
   振り返れば見間違いようの無い、親友の姿。



   *



  「猊下、暴徒が『ラーヴァ自治区』に進行しているとの報告が。」

   静謐なる礼拝堂に谺する厳めしい声は、段上の上で祈る彼を責めているように聞こえる。
   跪き熱心に祈りを捧げているのは年若い青年であった。
   彼が想いを捧ぐは目の前に在る壮麗な太母の像、微笑んでいるかの様な淡い表情は慈悲を象徴しているかのようだ。
   天窓や彩色肖ったステンドグラスからは輝かしい光が吹き込み、礼拝堂の神秘性を更に増した。
   『問う者』と『祈る者』を祝福しているかのように。


  「総本山に籠城している『ヨニ教』司祭達も時間の問題です。」

   その彼の言葉を聞くと青年は立ち上がって彼へと振り返った。
   寂しさと悲しさを併せ持った何とも言えない顔をしていた。

   この真昼の間にこの場所へ訪れる者は得てして少ない。
   用の無い限りはこの聖域への出入りは禁じられている上、許されるのも祝日のみとなっている。
   彼が此処へ訪れたのは、これから起こりうる災いの懺悔と贖罪を誓う為である。
   寧ろ今日は祝日から程遠い日となる。


  「ラフマノフ大僧正。 クローディア殿は何と仰ってました?」

   青年がそう問うと彼に語りかけていた『大僧正』ラフマノフは顔を険しくした。
   彼の様子から結果を悟るも様子を詳らかに聞く。

  「彼は、『原罪』の一環である『ヨニ・ガイラ』の遺物を残らず駆逐するおつもりです!」

  「・・・無慈悲な。 それ程に憎悪しているというのですか。」

   苦しいのを堪えるように、彼は拳を握りしめて顔を俯かせた。
   クローディアへの怒りではない。思い通りに事が運べない歯痒さと、自分自身の力の限界に怒りを感じていた。
   そして気を使わせないよう直ぐに淡く笑った。 段上の後光の差す太母の様に。

   彼もまたクローディアと同じく、国を受け継ぎ支える定を持っている。
   だからこそもっと理解して欲しかったのだ。 国が変化する術が必ずしも『革命』に限らないという事を。
   青年は悔しかった。 彼の友人に成り得なかったから。

  「たとえ彼の意向が何に向こうと、仰せつかっているのはどの代も『ラクシュミュト』から離れず中核を守るという誓約です。
   事が良好へ進む事を祈る以外、私達は彼を信じるしかありません。」

   足音は高らかに天井に響き渡る。
   上を見上げれば聖母を見守る天の御使いの石像群、蔦と茨の『贖罪』を表すアーチ。
   許しを請うが為の場所、この場所で祈ってさえ何故人は救われないのだろうか。
   青年は誰より『真理』に近い場所に居た。それでも誰も救われない理由が理解出来なかった。


  「どのような祈りを捧げておられたのですか?」

   何しろ彼は熱心に祈っていた。
   どんな祭日の時も真摯に祈っていたが今回は違った。
   まるで魂も捧げるかの様な勢で、彼の周りの威圧が格段に重かったのだ。

  「祈りと言える程褒められたものでも尊くもない。
   私の勝手な我が侭だ。 こんな身分でありながら何て烏滸がましいと思えるよ。」

   寧ろ『太母』の彼女は、本来祈るべき対象ではないのだ。
   人類史上最悪の『魔女』であり、至上の尊さを兼ね備えた『聲隷』。
   ある時代の彼女はそう呼ばれていた。この国家の象徴であり今はもう居ない。
   願いを叶えてもらおうと必至に祈りを乞いた所で、聞いてくれる神は此処には居ない。
   この場所は懺悔する為に在るのだから。

  「そうだな・・・強いて言うなら『僕が一人の命も救い零さぬよう見守り下さい。』と言ったものだ。」

  「とても尊い事ではないのですか?」

  「まさか・・・自己満足な愚かさだとクローディア殿に軽蔑される。」

   前に似た様な事を彼に言ったら怒られたのだ。『そんな事でよく国の代表などになれたものだ』と。
   『犠牲無しに国を守っていくなどよく言えたものだ』とも。 言われてやっと気がついた自分を嘲けた。

  「優しさだけでは人は救えないんだ。 彼からそう教えられたから。」

   それだけクローディアは重荷を背負っていると知っている。
   だからそれを受け入れるのは痛かった。 青年は犠牲が怖くて仕方なかったから。
   そしてその果てに得られるものがあると知った時、価値のある事と思えたから。


  「時に大僧正殿、クローディア殿の傍らにいる少女の事ですが・・・。」

   各国に伝わる噂。
   それは『ヴェーダルド帝国』の皇位継承者に寄り添う者がいると言うものだった。
   始めは信じられなかった。彼は他人を酷く嫌っている上に『人間』など滅べば良いと妄語していたから。

  「ええ。 ・・・私も、度々拝見致しました。」

   その間のある言葉は、何か他に意味が込められているようだった。
   その事を理解した青年は再度ラフマノフに尋ねた。

  「クローディア殿より依頼されている事は?」

  「彼女の身受けの承認と保障の依りです。」

   『困ったお人だ。』と少し肩を落として青年は苦笑した。
   だが彼が唯一側に置いた人だ。それは大切な方に違いないと青年は噂を聞く度思った。

  「彼が依頼する程です。 それは大切な御方なのでしょう。それで・・・安否はどうなのですか?」

  「ヴェーダルドに住まう僧達の連絡による所、『革命』前に『自由権』を得られたようです。」

  「そうですか・・・。」

   『よかった。』と一息吐くが、クローディアの『皇太子付き』に限る話ではない。
   自身と同じ『人間』がまだ『捕虜』の楔に縛られ、救われない状況にある。
   特に『ヴェーダルド』と敵対関係の『ラクシュミュト』の人々は、特に骨身に染み渡るだろう。
   『消費物』という価値でしかない人間なのだから。掃いて捨てるほど人間は大勢いる。
   そんな『ヴェーダルド』の中で『人間』に未来は望めない。

  「やっと『魔族』に囚われていた人々を解放することが叶うのですね。
   私の肩の荷もようやく落ちそうです・・・。」

   そうは言ったものの、きっと囚われていた人々は彼らを罵倒するのだろう。
   『救いにくるのが遅すぎる』と。何故それを最優先に救いに来なかったのだと。
   この二人は覚悟しているのだ。国を背負っている以上それは至極当然なのだと受け入れる。
   ただ在るがままを受け入れる。事実なのだから。



  「その彼女ですが、名は何と言いました?」

   彼から託される大切な客人で、彼女を養っていく事が自身の償いにも繋がるのだろう。
   奇跡の『詩』を歌い、彼の傷を少しでも癒してくれた尊い人を。

  「『聖詠のムシュリカ』・・・。 そう聞いております。」

   その異名の由来。
   彼女が謳えば夢幻の物語を説き聴かせ、人々を瞬く間に魅了する。
   その詩は至純にして妖艶、残酷にして麗美。
   神懸かったその聲は、聖なるものか魔のものか。
   今や知る人ぞ知る、『魔』と『人』に立つ『狭間の者』。

  「ムシュリカ・・・『愛にまみえる者』、美しい名ですね。」

   彼女の心の歌も、さぞや愛に満ちているのだろう。
   そして愛されているのだろう、『神』にも『人』にも命ある者達に。

  「会える日が、実に楽しみです。」

   こんな事態に不謹慎であるが、素直にそう思った。
   彼の答えにラフマノフも苦笑して笑顔を返した。



   そうして彼は一度真面目な顔になると、彼はラフマノフに告げた。

  「大僧正殿は先に公会堂へ向かって下さい。そして各地の元老院にロネクトフィへ収集の制令を。
   私も後で向かいます。」

  「承知致しました、ニュクス教皇猊下・・・。」

   自分よりずっと年下の青年に、ラフマノフは深く頭を下げてその場から立ち去った。
   ニュクスが手を振って見送っているのにも気付かず、一度も振り返らずに。


   彼一人が大聖堂に残って、実に寂しい世界になった。
   一人残っていると自身の身分の責務を知らしめている様な、そのような凄みが周りから圧迫される感じに成るのだ。
   何度とこの聖堂の台座に上がっているのにも関わらず、その恐怖は張り付いて離れない。

   『教皇』と呼ばれるようになって月日は経ったが、人々がニュクスを認め『国の大黒柱』として頼りにするようにもなった。
   愛し愛さなくては為らない存在。彼は生まれつきそうだった。それでも寂しい気持ちを、気付かない振りをしながら。
   自身の寂しさを埋めるように祈り続けた。 母同様に愛してきた、聳え立つ太母を。

   だからこそクローディアを放ってはおけないのだ。
   彼とニュクスは似ているから。誰より悲しい人は自分と似て非なる人だった。
   彼がそれを『無様』『愚か』と吐き続けても。


  「私は  僕は、それでも祈り続けます。
   貴方が千を恨むのなら、僕は万を愛していく。 そうですよね?」

   自らが思う事を信じ、ニュクスは再び聖母に祈った。
   旅の幸がクローディアと未だ見ぬ『皇太子付き』に多く向かうように。



  「原始の太母『クローディア』よ。 どうか彼の『破壊者』と『愛まみえる者』に御加護を。」

   彼は祈り続けた。
   多くの人々が幸せになる未来を望みながら。



   *



  「・・・マニカ?」

   見間違い様が無かったが、問うようにして彼女に呼びかけた。
   対してマニカは屈託なく笑うだけで、ムシュリカはそれが怖かった。
   だって全くの予想外だったから。

  「あの・・・マニカなんだよね?」

   自分の眼を疑ったかムシュリカは当然の事を聞いた。
   マニカはそれを聞くと、吹き出して笑い出した。

  「アハハハハ! なぁに?幽霊でも見たかの様な顔して。」

   間違いなくマニカだった。 この笑い方、数年間過ごしてきて一番側に居たから知っていた。
   だが彼女がこの場所まで来れる筈無い。
   一番何も知らなくて、『魔族』とは何の関わりも持たない筈だ。
   働いて、寝て、ご飯を食べる。 そんな日常の繰り返しを、嘗てのムシュリカの生活を唯一人持っている子。
   『魔族』を嫌ってて、ムシュリカが望む『普通』の生活を持てる人だから『有り得なかった』。

  「何者だ。」

  「僕の『元』部下で『捕虜』だった娘だ。」

   会話が聞こえたのか、マニカはそちらを向いた。

  「どうやらムシュリカの後ろにいる人が『ヴェーダルド帝国』の『皇太子様』。
   アーサーさんが肩を貸しているのが、何かの隊長さんって所かな?
   此処へ来るまで相当苦労してきたみたいだね。」


   クローディアの姿に気がつくと、礼儀正しく服の裾を直して辞儀の作法をした。
   それを重傷者であるエンディオにもすると、静かに答えた。

  「お初にお目にかかります。
   私はそちらに居らせられるジェリーベル卿の『侍女頭』マニカと申す者です。
   貴方様は『皇太子殿下』、ジェリーベル卿の隣に居られるは『上級騎士エンディオ殿』とお見受け致します。」

   妙に恭しい。
   こんな事態なのだから、『魔族』に礼の必要は無い事を知っている筈なのに。
   だがそれは一瞬で、直ぐにもとの砕けた言葉遣いになった。


  「なぁんだ。 ヴァシュクも一緒なんじゃない。
   どうして私にも言ってくれなかったのかな? 『逃げる』事。」

   ヴァシュクを一瞥して、誰と分からぬ問いをムシュリカ達に向けた。
   誰が答えれば良いのだろうか。 それとも答えない方が良いのだろうか。

  「アーサーさん。 貴方の『お願い』の通り、街中の人々に流しました。
   『ヨニ教様が今まで隠してた真っ赤な嘘』。 みんな始めは信じられないって言ってたけど。
   外凄いですよ? 門前なんて、もみくちゃだし。」

   手の指を一本ずつ立て頭に寄せて鬼の真似をして、外の人の様子を分かり易く伝えた。
   だが皆それを知りたい訳じゃなかった。
   不測の事態に唖然としていたが、ヴァシュクがマニカに問うた。

  「マニカ・・・、此処は危険だから早いとこ外へ逃げ―――、」

  「『どうして此処へ来たの?』、じゃないの?」

   回りくどい言い方が気に入らなかったのか、睨みつけるようにしてヴァシュクに逆に問いかけた。
   図星だったのかヴァシュクはたじろぐようにして押し黙った。
   どうしてこの秘密裏の通路を知る事が出来たのか。


   マニカは頭が良かった。
   だからムシュリカの周りの人々の事も直ぐに把握出来た。

   もしかして怒っているのだろうかと思った。 思い当たる事が多くある。
   ヴァシュク『反乱軍』の一員だった事を隠していた事。
   此処にいる全員で国外へ逃亡しようとしていた事。
   一人きりになってしまうマニカを残して、ムシュリカは知っている人全員で逃げようとした。

  「君には最後の仕事を『頼んだ』あと、直ぐに故郷の国への『帰還証』を手渡した・・・。」

  「『使わなかった』だけですよ。 使う必要が無いですから。」

   どうして千載一遇の『自由』を棒に振る様な事をしたのだ。
   ムシュリカは信じられなかった。故郷を知らない自分とは違って、マニカは知っている者だから恋しく思う筈なのに。

  「それにしても・・・酷いじゃないんですか、アーサーさん。
   皆知ってる人だけで逃げようとして、私達『労働者』を放っておくなんて。」

   湿った壁に寄りかかってマニカはアーサーを横目で見た。
   マニカを見るアーサーの眼は真剣だった。
   『捕虜』達の『自由』を望んでいたにも関わらず、それを持たないと彼女が言ったから。
   ただ一人、幸せになって欲しかった。此処にいる全員が、後々苦難が来る事必至だから。
   何も関しない彼女が『故郷』に戻って飾らない人生を送ってくれれば、健やかに居てくれる事が良かったのに。


   分からない事が多くある。
   それはクローディアやエンディオの事など山積みだけど、目の前にあるこの状況が一番難解だった。
   マニカが此処にいる『理由』、此処へ来た『理由』、この場所を知っている『理由』。
   数多くの『どうして?』が、ムシュリカに巡る。
   マニカは黙る一同を見回し、『理由』を皆理解出来ない事を察して仕方無しに話し始めた。


  「始めは、そうね。
   ムシュリカが城仕えするようになってからの頃だったと思う。
   アンタが『皇太子付き』になってから凄く心細そうだったから、私とヴァシュクも入城を許可された。
   勿論許可をしてくれたのはアーサーさんだった。
   悩みの種は殆ど『皇太子様』で、ムシュリカはたくさん話してくれたし、気が晴れるのか徐々に笑顔を取り戻していった。」

   時間がないのにも関わらず彼女は語り始めた。
   それはムシュリカが城に仕え始めた頃。クローディアに対して下向きの想いばかりが募って苦しかった。
   本人のいる前で話されると少しばかり恥ずかしかった。

  「落ち込んでいたアーサーさんもいつも通り明るくなった。
   だからその時、ホントにムシュリカって凄いんだって、 私心から感謝した。
   他の誰でもなくムシュリカが、アーサーさんを癒してくれた。」

   そんなつもりは無かった。あの時は、お互いの想いの丈をぶつけ合っただけだから。
   気が晴れたとは言え、解決したとは思っては居ない。
   マニカは勘違いをしていると、ムシュリカは思った。

  「ちょくちょく城に来るたび私はムシュリカに会えたけど、同時に会う事になるのが『ヴァシュク』と『サリネ』。
   昼ご飯になる度、必然的に私達は4人集まった。でもその度『おかしい』と思う事が二人にあった。
   仲が良いとも悪いとも聞かない、『知り合い』としていた二人が城で会う度に行動するようになった。」

   それは切欠があったから仲良くなっただけではないのか?
   そう思ったけど今の二人を見て合点があう。 きっと『この事態』の理由だ。

  「二人の関係を知ろうと思う度、私は二人を見てた。
   そして二人の側に、『アーサーさん』が居ることを知った。
   三人が何をしているのかは知らなかったけど、何かしようとしている事は確かだった。
   ヴァシュクは何も知らないで利用されているだけなんだと思ったけど、・・・そうじゃなかったみたいね。」

   彼女は元々『反乱軍』の一員であった。
   利用されるどころか、『国』を利用しようとしている者達そのものだった。
   ヴァシュクは眼を背けてた。

  「・・・マニカとやら。 アンタは逆にサリネさん等を利用しようとしたって事かい?」

   虫の息のエンディオは精一杯出せる声で、マニカに問うた。

  「隊長さん。 私は、そんな器用な事出来やしないよ。
   ただアーサーさんやムシュリカが心配だっただけ。 それで追ってきただけの事。」

   足音の地鳴りと共に兵士達の怒号がだんだんと近づいてくるのが分かる。
   焦れったい気持ちが逸ってきた。


  「誰もが私に『隠し事』をしていた。
   アーサーさんやヴァシュク。 ましてやムシュリカまで。
   私は今日この日まで、何も起こらなければそれでも良いと思っていたんですよ?」

   アーサーの方に悲しい視線を向けた。
   ムシュリカが去った後の『捕虜』の様子は、マニカやヴァシュクの話でないとムシュリカは分からなかった。
   彼女が言うには何も変化は無いと言っていたが、確実に孤独だったのであろう。

  「遂に来たこの日。
   私はアーサーさんに最後の『頼み』と言う名目で、『噂を流す』という楽な仕事を与えた。
   思った通り楽だった。 ただ、そう話すだけなんだもの。
   案外みんな受け入れる事に戸惑っていたけど、結局この事態までに膨れ上がった。
   本当に、『愉快』でした。」

   笑ってた。
   本当に笑顔を浮かべていた。 確かに楽しんでいるのだ。背筋が凍りつく。

  「だけどその後、『自由』にするって事で私はお役御免になった。
   ようやくきた『解放』だった。 いつか来るって信じていた。
   何時も思っていた夢が叶ったってのに、私は満足出来なかった。 どうしてか分かります?」

   再びマニカはアーサーを見る。
   だが今度のアーサーは彼女を信じられないと言った感じの、疑惑の視線を向けていた。 彼は分からないようだった。
   ヴァシュクやサリネも同様だった。

  「一気に、連れて行ってしまったからです。
   『親友ムシュリカ』、『同僚ヴァシュク』、『唯一の仕事・捕虜』という私の存在性。
   そして『貴方自身』も。 それで、何事も無かったと皆が思えると?
   みんな連れて行って、私だけ置いていって、 納得すると思っているんですか?」

   先程のムシュリカの問いと似ていたが、彼女のは少し違っていた。
   ムシュリカ以上に別の思い入れがある様な、意味深な事を言っていた。

  「・・・アーサーさん、置いていかないで下さい。 私にも何か言って下さい。
   何で私には何も言わないんですか?
   私がムシュリカやヴァシュクと違って何にも目立たない地味な『人間』だからですか?
   サリネと私じゃどう違うんですか? あの子の方が綺麗だからですか?

   どうして私じゃ駄目なんですかっ!?」

   それが、彼女の本音だった。
   マニカはアーサーの事を、ムシュリカがクローディアを思う事と同様の気持ちなのだと。
   そして同時に嫉妬していたのだ、アーサーの周りによりつく者達に。

  「・・・マニカ。
   別に私はこの男の事なんてさ、死のうが生きようが―――、」

  「黙ってよ!
   アンタは私の欲しかった物、全部独占して!
   ムシュリカの隣に居る、アーサーさんの隣に居る、城に優雅に暮らしている!!
   サリネ、アンタなんて嫌いよ! 大嫌い、大嫌い、大嫌いっ!!」

   突然の暴論に、サリネは呆然として何も言い返さなかった。
   だが確実に意味は受け止めているのだろう。それに気付いてやれなかった責任も感じているのだった。


  「マニカ・・・君は、」

  「アーサーさん。 私はずっと貴方だけを想っていた。
   でも貴方はいつだって『ムシュリカ』や『サリネ』を想うばかりだった。
   私じゃ到底入れそうも無い所に貴方達はいて、私は絶対に貴方の側に行けそうも無かった。
   無理なら、せめていられる時間だけでも嬉しかった・・・。

   なのに貴方は・・・貴方は此所からっ!!」

   アーサーの言葉を遮って、マニカはそれでも話し続けた。
   何か『おかしい』。それに気付いているのはムシュリカだけではなかった。

  「どのような方法で貴様はこの場所まで嗅ぎ付けた? この場所は城に居る者でも知れる事が限られている道だ。」

   問うたのはクローディアだった。 彼が珍しく立て続けに問う。
   何故かと思うのは、おそらくムシュリカと同様の理由。
   ふと、感情的になっていたのが嘘みたいに落ち着いてマニカは冷静に話した。

  「当然『反乱軍』ですよ、『皇太子』様。
   城への入城は難関でも『ジェリーベルの紋』を持っていたので容易でした。
   私はムシュリカと側に居る事が多かったですし門番とも顔見知りでしたから・・、それから後は鼠算式です。
   『辿っていけば辿り着いた』。 だから『彼らから教えてもらった』、それだけなんです。」

  「見張りの奴には誰であろうと教えるなと伝えておいたが。」

  「『皇太子』様。 人間の『秘密の壁』なんて案外脆いものです。
   勿論時間はかかりましたけど、それに連なる事態を兵士に問うたら予想通りの答えをくれました。」

  「大した情報網だ。」

   素直に関心はしているようだが、彼はやはり無感動であった。
   常々彼女が実力を発揮するのがこの才能なのに、こんな事が徒になるとは思いもしなかった。
   だがマニカはまだ肝心の事を言っていなかった。予想は出来ているが。

  「マニカ・・・貴方が此処へ来た理由は。」

  「勿論『アーサーさん』だよ、ムシュリカ。」

   彼女は『本当に』アーサーを追う為に来た。
   だがそれだけではない。 彼女はまだ何か隠していた。

  「それだけか?
   ここで長話をしているのは何の理由だ小娘? ただ延々と話すだけではないのだろう?」

   核心に迫る事をクローディアは直接マニカに問うた。
   彼のその問いを言った瞬間、アーサーやサリネ他の全員もハッとなってマニカを見た。
   マニカの企みと饒舌な術中にすっかり嵌っていたのだ。
   つまり彼女のしたかった事は、この場に『ムシュリカ達を食い止める』事。


  「それは貴方達の思う通り。  『時間稼ぎ』・・・ですよ。」

   道の中央に立つマニカの両隣にはいつの間にか見慣れた兵士達が並んでいた。
   それは今まで見てきた、ムシュリカの見慣れた『宮廷兵士』。
   紛れも無いエンディオの部下達。
   いつの間にかムシュリカ達は囲まれていて、逃げられなくなっていた。
   マニカの手にも小刀があるのを見て、目の前の彼女が『敵』として立ちはだかっているのを悟った。



  (後編へ続く)