ラクシュミ 〜221譜の讃歌〜
『序章・牢獄脱走』:後 evasione
『 『歌』とは言の葉の律、それに耳を傾ける人は幸いです。
その人には心があるのだから。
『詩』とは命の泉、詠める人は幸いです。
それを世界に広げる事が出来るのだから。
だから私は謳い続ける。
『詩』は世界を繋いでくれると信じているから。
《天拝 序章》 クローディア・エクリッセ』
祭暦 0年
帝都シャクルム 『国境』
何でこんな事になったのだろうか。クローディアが国に『革命』など起こしたからであろうか。
どうして逃げているのだろうか。ムシュリカが『自由』を望んだからであろうか。
何故マニカが、刃をこちらに向けているのだろうか。いつから彼女は『敵』だったのか。
「そんな物持って、・・・どう言うつもり?」
ムシュリカがそう尋ねたけれど、マニカは何も答えなかった。
それどころか笑っていた顔はいつの間にか消えていて、酷く冷たい表情で小刀をアーサーに向けたのだ。
繰り返し繰り返し、ムシュリカの中で回り続けた。『何故、大切な仲間を恐れているのか』。
「アーサーさん。 私だってこんな事したくなかった・・・。」
脅しとも取れる様な行動と裏腹に、マニカの声は悲しそうだった。
ヴァシュクがアーサーの代わりに尋ねた。
「アーサーだけ残せばいい話じゃない。 何で後ろの奴等まで連れてくる必要あるの?」
ヴァシュクの声はとても鋭かった。
丸で挑発する様な強気な態度だった。 それは『敵』である者に聞く様な。
マニカもそれに気付いて、唇だけ薄く笑った。
「言ったでしょう? 私がしたのは『時間稼ぎ』。
貴方達を留まらせるために話をして、彼らの到着を待つ。 それが『私の役目』。」
『そんな事』、誰に強いられたのだ?
もうマニカは自由な筈なのに。 一体そんな事誰に強制された?
マニカは、本当に自分の意志でこんな事をしているのか。 嘘だと思いたかった。
彼女の持つナイフに、ヴァシュクとサリネはキッと睨みつけた。
恐らく隙を見て、手に持っている武器を奪おうと考えているのだろうと直ぐに分かった。悲しかった。
「そいつ等までも手懐けるとは・・・、どこまでも手の早い亡者共だ。」
国に残っている『魔族』。
差し詰め『皇族』の生き残りとその臣下を国民に晒し、自分たちの身代わりに公開処刑でも起こす気なのだろう。
もっとも、それで国民達の暴動が治まるとも思えないが。
『魔族』の一族は『地帝』の子孫としては無様な執念を持っていた。
マニカの背後に並ぶ兵士達は、城に仕える一般兵とは比べ物にならない『上級兵士』達であった。
地味な服装のマニカがそれらの者達を率いているのは滑稽に見える。
「ムシュリカ達は知っているでしょう? 後ろの人達がどんな人達なのか。」
勿論知っていた。 『皇太子近衛兵』達である。
ここ数年過ごしていた事で名前も憶えている者も多い。
ムシュリカと親しくなった者達もいたが、その彼らが今主人と兵頭に刃を向けているのだ。
「この人達も同じ。 私と同じなのよ。
突然慕っていた人がいなくなって、生きる術を無くしている。
エンディオ隊長さん。 貴方に従っていた人達ですよ。」
闘戯大会の時、エンディオを通して彼らと知り合う事が出来た。
良い思い出が多い筈なのに、それが今思い出せないでいた。
「貴方も酷い人ですね。 エンディオ隊長さん。
貴方は『皇子様』と『アーサーさん』を守るだけで、この人達の事を思い出さなかった。
それとも、無かった事にしようと思ったんですか? そこにいる『皇子様』達と同じように。」
マニカの視線はクローディアへと向いていたが、彼女の本心はアーサーに傾いているのだろう。
アーサーもそれを理解しているのか、苦しそうな顔をしていた。
「手前ぇ等・・・、早く逃げねぇと『死ぬ』って言わなかったか?」
『半死半生』、その言葉が合っているのだろう。
実際彼の声は絶え絶えだったのだし、血はもう足下に溜まる位流れていた。
「頭・・・俺達は、 国の為にすべてを捧げてきた。」
『満の間』の『近衛兵』にもエンディオの部下はいた。 その中にもいたのだ。
家族や親友、兄弟と言える掛け替えの無い存在が。
たとえ誰であろうと、国を裏切る『売国奴』は倒さねばならない対象である。
「これは、アンタの教えなんだ。」
一人二人と、兵士の誰かがエンディオに答えていった。
自分へ言い聞かせる様な、そんな言い訳だった。
本心はきっと、マニカの言うようにエンディオと彼らの絆によるものであろう。
「『サリネ』に『ヴァシュク』に、そして『私』ね。マニカ・・・。」
捕らえられる対象は、『クローディア』と『アーサー』『エンディオ』を含めたその6人。
『皇族』の縁がある者、この場の全員。
「ごめん・・・ごめんね。ムシュリカ。ヴァシュク。
私どうしても、 どうしても『アーサー』さんだけは諦めたくないの。
こんなに汚くてごめんなさい。 やっぱり私は、ムシュリカみたいに『綺麗』になれない。
だから悔しい。 こんな事しか出来ない私が、一番憎くてたまらない。
でも私は、『人間』だから。」
その言葉は稲妻だった。とても磨がれた槍だった。
ムシュリカは眼を開いた。そして身体を震えた。
恐怖ではない、悲しさと絶望からである。
マニカの口から聞きたくなかった、『差別』の言葉。それはムシュリカの『人間』としての否定。
「『人間』らしい『選択』だろう。 汚さを持たずして何を得るつもりでいる。」
当然らしくクローディアは言ったが、マニカも他の者もみんな笑いも安堵もしなかった。
「アンタには分かんないよ、『死に損ない』。」
サリネは吐き捨てるようにクローディアを罵倒した。
「どうあっても、私達を捕らえるつもりなのね。」
「そう。 悪いけど大人しく捕まって欲しいの。」
再びナイフを挙げる。
ヴァシュクも腰から短剣を持ち、マニカに構えた。
見たくなかった光景。 友達どうしが殺し合う、陰惨で残酷な現実。
「お前自身もあとで捕らえられる事になるぞ、娘。」
「知っています『皇太子』様。 でもいいんです。
私達『人間』は遅かれ早かれ死にますから、私は何時死んだって構いません。
今まで皆と暮らしてきて、ムシュリカ達やアーサーさんと一緒にいられた時間だけでもとても幸せだったから。
これは私の勝手な我が侭。
貴方達『魔族』だって散々贅沢してきたんだから、これ位良いでしょう?」
マニカの意思は固かった。
ので、ムシュリカ達に残された選択は限られていた。
此処で『抗戦』するか、『投降』するか。
「マニカ、聞いてくれ。」
今まで黙ったままのアーサーが、口を開いていた。
下手なことを言えば問答無用で彼らに捕らえられる。
「確かに、僕は君達の意見を聞かずに君たちを『後』に残した。
君達『捕虜』を捨てたと言うのなら、それを『認める』。」
緊張が走る。それは武具を構えている兵士達にも同じ事であった。
「目先の国の事を救おうと追うばかりで、残った惨事はどうにでもなるであろうと鷹を括っていた。
だからこの責任を訴えるのなら、償いは幾らでもするつもりだ。僕ら『魔族』はそれ相応に君達『捕虜』を苦しめたのだから。」
「俺も、それを認める・・・。」
アーサーとエンディオの、その言葉が真実であるのなら信じたいと思った。
彼の力ではなかったが、ムシュリカは今『自由』である。夢は叶ったが『嬉しい』とは思えなかった。
何が理由といえば、何も責任を取ろうとしない『魔族』が許せなかったからである。
「責任を取って欲しいと、私は言いました?」
「勿論。君の望みとは範疇外の事を言っているのは分かっている。
だが、今此処でそれを言わなければ僕は一生後悔する。」
ムシュリカは気付いた。 アーサーも『時間稼ぎ』をしていると。
「貴方が、『魔族』だからですか?」
「ああ。 僕は『魔族』だ。 傲慢で強欲で『人間』贔屓の変人と言われる男だ。」
アーサーが手を合わせた。
ヨニ教の礼拝でも見る様な不思議な、手を合わせる動作。
「アーサーさん、・・・貴方っ!!」
「今でも君たちが『家族』のようで、大切な存在だと思っている。 だが、」
マニカも気付くのが遅かったのだろう。 アーサーが何を考えているのかやっと理解したのだ。
アーサーの碧の瞳が青く光った。
「だが僕は・・・それ以上に、この醜い国を愛している!」
アーサーの足下が爆発したかのように閃光した。
それらはムシュリカやクローディア達も巻き込んで、一気に視界が真っ白になった。
足下を見れば茨の紋様が見えたので、『目眩まし』と『移動』の『魔術』と気がついた。
ムシュリカ達は、最後の選択の『逃亡』を選んだ。
全員、生きている間にすべき事が多くあるのだから。
「アーサーさん!! 待って!アーサーさんっ!!」
マニカの叫びが聞こえた。
彼は最後の言葉でマニカを受け入れなかったのだから、当然聞こえていた。
言葉が痛かった。 何がって『心』が。
アーサーを呼ぶマニカの声は、アーサーを想っての叫びだったから。
閃光が去って目が慣れて来る頃には、もうその場にムシュリカ達は居なかった。
耳を澄ましても駆ける足音も聞こえず、その場にはマニカと兵士達が残った。
「逃げられたか。」
「直ぐにでも追いかければ、」
そう兵士が言葉を続けようと思ったその時、目の前に大きな影が見えたのだ。
誰かが残されたのだと気がついた兵士達は、剣を構え直した。
暗さに慣れつつ、誰がそこに立っているのか目を凝らした。
「誰だ!」
一人が威嚇しながら、徐々に影の前へと詰め寄った。
前へ前へとにじり寄った時、その正体が何なのか理解すると逃げるように後ろへ下がった。
彼は震えていた。 よりにもよって絶対に戦いたくない相手が目の前に居たからである。
影は人であった。それも巨体な。
「エンディオ・・・頭領!」
前に居たのは傷だらけになった血まみれのエンディオだった。
血を流し立つのもやっとの筈なのに、それなのに彼の威圧が落ちる事は無かった。
彼の歴年の闘気が『部下』達に忠告する。
「俺は、『近衛兵隊長』だ。 最後までクローディア様とそれに連なる人を必ず守る。」
彼は、あくまで『剣士』としての意義を通すつもりなのだ。
それを阻害する者は例え自分の部下であった者達であろうとも、 斬り捨てる覚悟で。
*
アーサーのお陰もあってか、ムシュリカ達はマニカ達から逃げ切る事が出来た。
白い空間から行き成り暗い空間に戻って、暫くは目が慣れなかった。
「どうやら、切り抜ける事が出来たようだ・・・。」
アーサーのその声が聞こえるのと、聞こえている筈の怒号が無い事で目を開く事が出来た。
あたりは、静かだった。
「て言うより、『魔術』使えるなら始めから使えよ碌で無し。」
「そんなに使うわけにはいかないだろ? こんな大所帯で『魔術』を使えば足がつき易くなるんだし。 」
彼はマニカが来る前から『布石』を用意していて、いつでもその『術』が発動出来るよう様子を窺っていた。
詠唱無しで『魔術』を扱える天賦の才を持っているのは知っていたが実際見るのは初めてだった。
文句を言いながらもサリネはそれなりに感謝はしているようだった。ヴァシュクもだ。
「よし・・・全員居るな。」
側に居る『反乱兵』が全員の所在を確認した。
ムシュリカとクローディア、アーサー、サリネとヴァシュクに反乱軍の兵士達。
其処がどこか分からないでいたけれど、話から地下水路の出口近くなのは確かだった。
難を逃れたのを安心してムシュリカはあたりを見回したのだが、ある人の姿が無い事に背筋を凍らせた。
「アーサーさん・・・、 エンディオさんは?」
文字通り恐る恐る尋ねた。
アーサーは、行き成り話す口を止めた。
サリネとヴァシュクは理由を分かっているようだったけど、ムシュリカは認めたくなかったから。
「エンディオさんも、一緒の筈ですよね?」
あんなに見捨てないと言ったのだから。
彼がエンディオを置いていく筈が無い。 重傷を負った彼一人を残して、戦わせるなんて事させる訳が無い。
「ア・・サー・・・さん?」
どうして何も答えないのだ?
何もかも無事でないと気が済まないという彼が、その信念を折ったというのだろうか。
再び追求しようと思ったとき、クローディアが割って入ってきて告げた。
「俺が置いてきた。」
決定打となる一言だった。
ムシュリカは一瞬ポカンとした顔になったが、彼の言っている意味を理解すると直ぐに反論した。
「お、置いてきた・・って!」
「奴自らの希望だ。 『移行』の術が発動した時、奴だけ術を否定した。
残りたいと奴が望むのなら叶えてやるのが主人の勤めだろう。 強制はした覚えは無い。」
「ですが、あんなエンディオさんを残して戦わせるなんて・・・!!」
彼は重傷なのだ。 そんな状態で戦った所で、退けれるかどうか。
それどころか本当に命を落としかねない。
アーサーもどうしてこんな大事な時に命令など聞いたのだ。
「アーサーさん! それで良い訳ないでしょう!?
『誇り』が何であろうと『生きる事』の方が大切に決まっているのに!!」
ムシュリカはアーサーに迫った。
また彼が『魔術』を使ってエンディオの元へ行ければあるいは、と思ったからだ。
マニカもそうだ。
彼女にまだ何も伝えていない。このままでは報われない。
あんなに悲しい呼び声が耳に焼き付いて離れない。 マニカの言葉は嘘偽りの無い真実だったのだから。
彼女はムシュリカ達を敵に回してでも、アーサーが『好き』だったから。
「アーサーさん、お願いです! 私だけでもエンディオさんの元へ運んで下さい!」
そのムシュリカの願いをアーサーは頑として首を縦に振らなかった。
そんな自殺行為の願い、尚出来る訳が無い。
『人間』のムシュリカが出来る事など、あの場では何も無い。
「・・・駄目だ。そんな事をしては君が傷つくだけだ。」
ムシュリカの、『心』が。
「構いません!! 私よりもエンディオさんが傷ついているのに!!」
埒が空かなかった。
何度も何度も頭を下げて願っても、無駄だった。
アーサーは此処に居る全員でも国を出て、『ヴェーダルド』の為に戦うつもりだから。
目の前の障害の為に命一つ犠牲にする事の覚悟はある。
ムシュリカが救いたい一心なのを見て、サリネは何を思ったのだろう。
懇願するムシュリカにそっと触れて、彼女の言葉を止めた。
「・・・サリネ?」
「私が向かう。 私だってもう『自由』なんだろ?」
予想だにしなかったのか、サリネの言葉は酷くアーサーを驚かせた。
アーサーは『君は・・・。』と呟いて、理由を問う。
「『自由』ならば私は『望む事』を実行に移したい。
エンディオが一人残ってるのは確かに不安であるしね。」
ヴァシュクも出来れば残りたかったがそれは叶わない。
彼女に命じられているのは『アーサー達の護衛』なのだから。
サリネはムシュリカの方を向いて『大丈夫さ。』と、ふっと微笑んだ。
「あの近衛兵達だから、エンディオに危害を加えるとは思えない。 それに、」
『マニカとちゃんと話をしたい。』
嫌われても尚、彼女は同じ『人間』の仲間で友達だと今でも思っているから。
少なくともサリネはそう思っている。
「確かにそうだ。 でもマニカの事は僕の、」
「勿論アンタの個人的な事情が含まれている事も事実だ。
けれど、あの子はもう引き返せない所まで来ている。」
ムシュリカ達の『敵』になってしまった事であろうか。
あんな長い時間一緒にいたのに、戻れる事も疑わなくてはならなくなった。
ムシュリカも『疑ってしまった』。
サリネの『望み』にアーサーは戸惑ったけど、叶う事になった。
必要な物は『護身具』のみ。 それ以外は嵩張る。
向かう準備が整ったサリネに近づいたのはムシュリカだった。 顔は不安と後悔に満ちていた。
「サリネ・・・。」
そもそもサリネが行く事を望んだきっかけを作ったのはムシュリカだ。
彼女が身の危険を顧みず行くのは望まなかった。
「アンタの所為じゃないよ。 そんなに気に病まないで。」
「でも・・・、」
「死ぬ訳じゃない。 私は話をしにいくだけだよ。」
それだけではない筈だ。
今度はサリネまで危険晒す。 ムシュリカは自分の望みで周りの人が傷ついていくのが堪えられないだけだった。
「なら、良い物あげる。」
そう言うとサリネは懐から小さな袋を取り出した。
中に何か入ってあるようで膨らんであり、彼女袋の紐を解いて中を取り出した。
「これ、私のお守り。」
ムシュリカに手渡されたそれは小さなレリーフだった。
装飾は丁寧な造りで、見た事も無い綺麗な花の紋様だった。
「そんな大事な物なら―――、」
「これがムシュリカを守ってくれるから。」
ムシュリカ以上に危険なのはサリネの方だった。
こんな時だからこそ彼女が持っていた方が良いのに、返そうとしたらサリネは無理矢理押し付けて受け取らなかった。
それでも不安な顔をムシュリカがするので、サリネは何時かのように抱きしめた。
『生きている』という証明の微かに暖かい身体。 ムシュリカは段々と落ち着いていくのが分かった。
「今度、返すからね。」
「分かってるよ。」
そっと放せば、安心している自分が情けなくなった。
こんな事でサリネが絶対に無事である保障など無いのに。
「ドラ息子。 ムシュリカとヴァシュクを頼んだよ。」
アーサーに振り返らずにサリネは言った。
それがマニカを否定したアーサーへの罰。
「分かってるよ。」
ヴァシュクも『死んじゃ駄目だよ。』と、ムシュリカに言えなかった言葉をサリネに贈ると、
サリネは数人の『反乱兵』と共に、エンディオの元へと向かって行った。
駆け足だったので、サリネ達の背中は直ぐに見えなくなってしまった。
*
その場に残っていた四人は直ぐにサリネ達と別の方向へ、国境口へと向かって行った。
走っては走って、四人は『逃走』の間、何一つ口を開かなかった。
聞こえるのは息が切れる音と足音だけ。
「もう直き国境璧前だ。大丈夫かい?」
それは疲れきっているムシュリカだけに言っているようだった。
息を切らして走っているのは彼女一人だけだったのだから。
「・・・大丈夫です。 早く向かいましょう。」
これ以上、足を止めてはならない。その実、全く大丈夫ではない。
エンディオが庇って怪我をして、皇帝が目の前で命を絶ち、マニカが刃を向けた。
立て続けに衝撃的な事ばかりが続いて、頭も身体も限界に近かった。
何より一番心が裂けそうになったのは、クローディアの事だった。
自分の家ともある国を自ら壊そうとする彼を、これからどう信じていけば良いのか分からなかった。
ムシュリカの最後の問いにクローディアは何も答えなかった。
何であんな事聞いたのだろうか。更に彼を猜疑してしまう。
ムシュリカは傷だらけだった。 誰より苦痛に堪えていた。
「後・・・もうちょっと。 頑張ろう。」
ヴァシュクの小さな励まし。 それはこんな窮地の中、救いだった。
「・・・うん。」
それでもヴァシュクでさえ信用出来るかどうか。
彼女は今、『反乱兵』なのだから。
ふと、行ってしまったサリネの事を考えていた。
彼女ならこんな時どうするのだろうと。
いつも厳しい状況下でも決して泣き言も文句も言わなかった。
サリネはこの国の事をどう思っているのだろうか。
彼女はヴェーダルド出身ではないと聞くから、国などどうにでもなれと思っているのだろうか。
決まっている。それ相応の事を国の権力者達はしてきたのだから。
同情の余地もない。 滅べば良いと思っているのかもしれない。
どうしようも無くなった国を、アーサーがどう立て直していくのか。
自分で壊した物をどうやって直すのか、教えてもらいたかった。
そして別の事も思った。
ムシュリカもクローディア同様に国の外は知らない。
国の外に広がる『世界』というもの自体、怪訝に思えてしまう。
一生知らなくても良い事なのだろうと、『捕虜』の時は割り切っていたものだ。
それが目の前に来るのだと知った時、酷く恐ろしく思った。
国の外での生き方など知らない。どんな路があるのか、暖かいのか寒いのか、何も知らないのだ。
本を読んだ所で、やっぱり『知らない』のだ。
国の外に出たくない。此処から外は『怖い所』だ。
誰に教わった訳でもないのに、無性にそう思った。
その切欠であった出来事を思い出した。マニカの命懸けの告白、アーサーのそれへの否定。
『時間稼ぎ』にしても彼の言葉は何かしら欠けている様な気がしたから。
すると、前の方にいたヴァシュクが立ち止まった。
次いで後ろにいた三人も立ち止まる。
何で止まったのかと思えば、前方に激しく弾け飛ぶ音が聞こえた。
耳を澄ますとそれは水の音と分かった。
ヴァシュクが立ち止まった先は、『何も無かった』。
地下水脈路の行き止まり。 目の前に見えるはヴェーダルド最終域の大滝だった。
「行き止まりだぞ・・・。」
「此処からしたへ降りる梯子が此処にある・・・。 これを下れば国境を越えられる。」
クローディアの問いに臆さず、ヴァシュクは淡々とした口調で答えた。
日が上がりはじめ、東から昇るので朝日がやってきたのだと分かった。
いつの間にか時間がかなり経過していた事に、そこで漸く気がついたのだ。
これで『外』に出れる。
「・・・アーサーさん。」
もう国境近くなったのか、全員は割りかし落ち着いていた。
話ができる余裕が出来たが、疲労の所為かとても声は弱かった。
「何だい?」
アーサーも顔色が悪かった。
幾ら仕方が無かったとは言え、エンディオを置いてきた事に心を痛めているからだろう。
「マニカに言った事なんですが、」
『あれに嘘は無かったのか?』と問おうと思ったが、アーサーの回答は質問する前に
「本心だよ。」
と、答えた。
「マニカが僕等全員を裏切ろうと、必死になって言った事だ。
僕も真実を彼女に伝えなければ意味が無いと思っていたから・・・だから。」
最後まで、聞きたくなかった。
これでは本当にマニカを受け入れないと言っている事と一緒ではないか。
彼の心にマニカは入り込めないのだ。
「マニカが、貴方をあんなに思っていてもですか・・・?」
せめて仲間には幸せになって欲しい。
想いが成就して、そうでなくても別の生き方を見つけて、健やかであってもらいたい。
マニカの『望み』そのものであったアーサーへの想い、彼女の夢は叶わない。
報われない想いを持ち続ける辛さを、正に目の前で見る事となった。
苦しむのだ。
のたうち回って晒されて、自分を壊してしまう程狂ってしまう。
それが親友なのが悲しかった。
「僕はヴェーダルドで生まれて、数十年間この国をずっと見てきた。
この国の人も、空も匂いも大地も、どの国に居ようがヴェーダルド以上に愛せる物は無いと思っている。
だから何だって無駄にしたくない。 ここまで来て、無駄にするわけにはいかないんだ。
『大嫌い』なこの国を、僕はこころから『愛している』。」
引き返せない。それは分かっている。
ムシュリカも今更この場から引き返して、マニカの元へ行こうと捕われるだけだ。
でもアーサーの言葉にはまだ隠し事があるのが分かる。
「もう嘘付かないで下さい。」
これ以上見ていても痛かった。 言ってしまえば楽なのにと、どんなに思っている事か。
「嘘じゃない。」
「もう本当のことを言っても良いじゃないですか。」
「既に真実は言ったじゃないか。」
「もう私にも隠し事をするのは止めて下さい!!」
声を荒げた。
もう嫌だった。 何もかも嫌だった。
苦しさに堪える顔も、悲しそうに笑う顔も、どれもこれも見てられなかった。
もう歩きたくなかった。進めば進む程傷ついていく。 だったらずっと立ち止まっていたい。
「・・・ムシュリカちゃん。」
「ムシュリカ。アンタは嫌なものを見過ぎた・・・。」
アーサーを遮ったヴァシュクが、ムシュリカの目の前に歩いてきた。
見た事も無い冷たい目をしていたけど、しかし口調は落ち着いていた。
「アンタは今日、『知るべき事』と『知らなくてもいい事』を多く知り過ぎた。
これ以上先は、アンタには残酷すぎる。
辛かろうが悲しもうが誰も私達を助けてくれる人はいなくなる。私達の敵は、此処の外全員になるのかもしれない。
そういう事が、『外』にはある。」
『世界に怖い事は無い。全ての物が仲間達であり、優しさと希望で溢れている。』と礼拝で習った気がするが、
事実はきっとヴァシュクの言う通りの事。
生きている限り、『味方』より『敵』が多い。
「でも『内』には、もう戻れない。
守られて助けられて保障される事も、この国には無くなる。
もう、私達は『冷たさ』に耐えるしか無くなるの。 覚悟を決めたのなら、いい加減割り切って。」
とても冷たい言い方だった。 なんて残酷な選択しか残されていないのだろう。
ムシュリカの勢いが憔悴した。 幼稚で感情的だった自分を情けなく思った。
『アンタも、ね。』とアーサーにもヴァシュクは釘を刺した。
それでもアーサーが納得いかなそうだったので、クローディアが更に言った。
「割り切っていないのはお前も一緒だろう、アーサー。
何故、曖昧な言い方をして『あの捕虜の娘』を逆なでした?」
クローディアが言うのなら、それが『命令』となるので否が応でもアーサーは答えざるを得なくなる。
「・・・言ってしまったら、きっと壊れてしまう。」
マニカが、であろうか。
「彼女は僕を想っていてくれた事は本当に、本当に嬉しかった。 だけど、僕には無理だ。」
アーサーは『国』の為に全てを投げ出した。
『絆』であろうと捧げるのだから、その決心は本物だろうとわかる。
「無理、なんでしょうね。」
ヴァシュクはやけに含みのある言い方をする。
丸で事情を知っているかのようだった。
「何でそんな事言えるんだ。」
「アンタの遺書めいた手紙に、それがあったから。」
何を読んだのだろう。 『遺書』なんて良いように聞こえない。
「アーサー、さん?」
「ムシュリカちゃん。 僕はマニカを受け入れるわけにはいかないんだ。」
幾ら『親友』の幸せを願おうと、それを無駄だと言うのだろうか。
何故だ? あんまり過ぎる。
「マニカじゃ、・・・駄目なんですか?」
「ああ。」
ハッキリと言った。
マニカの救いの道が断たれた。 ムシュリカが悲しさに顔を歪ませた。
「どうして・・・。」
様々な事に対しての、ムシュリカが総じて思った呟きだった。
「決まっているだろう。 それは―――、」
「クロード・・・いい、僕が言うよ。」
どうしても、クローディアに言わせたくない。
これだけは、自分自身で伝えるべき事なのだから。
「君を、裏切る事になる。」
なんで、私を裏切る事になるのだろうか。
そんな取って付けたような理由を聞きたい訳じゃないのに。
「君へ培ってきたものを、全て否定する事になるから。」
「培って、きた・・・?」
今まで、アーサーとの間に何が養われてきたのか?
『主人』、『恩人』といった物しか思い出せない。 そんなのマニカの物と比べたら大した事無く思える。
だが、嫌な予感がしたのだ。
アーサーがマニカを否定する理由を。
「子供の頃からずっと見守ってきた。
君のご両親の事も、『捕虜』として持つ時も、君が生まれて今日まで。」
アーサーの目が変わった。
それは先程まで罪悪感に塗れた暗い目ではなかった。
ムシュリカに向けるそれは、暖かく慈しみのあるもの。
確かな希望として見る、切なくて愚かしそうな、美しさを求める欲が溢れたもの。
先程の、マニカの様な目。
「君を『捕虜』としてでなく、・・・『人間』としてでなく、一人の、『ムシュリカ』として。」
ムシュリカは、突然自分への呼び方が変わった事に動揺した。
アーサーがこれから言う事が怖くなった。
彼の言葉がクローディアを裏切る事になっても言わなくてはならないのだ。
ムシュリカがそれを望んだのだから。
真実を受け入れて欲しいから。
クローディアの気持ちを知りながら、残酷な『感情』を持ったと自嘲する。
落ちぶれた『魔族』と言われても仕方が無いと呆れながら、再びムシュリカに目を向ける。
「ムシュリカちゃん。 僕は何が何でも、これだけは曲げない。」
アーサーは、告げたのだ。
「君を守りたい。共にいたい。 失いたくない。
これから先何があろうと、君となら生きていける。
教えてくれたのは君だ。 『ムシュリカ』。
僕は君を、『愛している』。 生まれた時からずっと、これからも。」
言い切った空間に、沈黙が流れた。
何も音が聞こえなくなった。 涙が込み上げてきた。
ムシュリカは目の前が真っ白になった。胸が張り裂けそうだった。
少しの間、彼が何を言っているか分からなくなった。
自分が他の人よりアーサーと親しかったのも、彼が側に居たかったから。
なるべく苦痛の伴わない仕事を任されたのは、彼が労ってくれたから。
真摯に勉強に付き合ってくれたのも、いつも助けてくれてたのも、ずっとずっとムシュリカを他の『魔族』から守ってくれたのも。
全ては、愛してくれた為。
悲しかった。 先程までアーサーを恨めしく思った自分を殴りたくなった。
アーサーの告白の嬉しさより、それにより自分の鈍感さを思い知った。
自分が憎かった。 他の何より憎かった。
どうして誰の気持ちも気付かないでいたのか、腹が立った。
「私が、 『捕虜』・・・なのにですか?」
「ああ。」
「『魔族』よりずっと汚い『人間』で、 ・・・『詩』を謳うしか能のない私をですか?」
何度も、アーサーは頷く。 遂に溜まっていた涙が流れ出てしまった。
それが嘘ならどんなに良かった事か。
こんな事態でなかったら、ムシュリカは素直に驚くだけだった。
気持ちの整理がついたらどうすべきか考えて、また嬉しく思ったのだろう。
元主人とはいえ、この世界で自分を愛してくれる人がいる事を歓喜しただろう。
マニカを受け入れられないのは、ムシュリカという存在が心を占めていた為。
受け入れれば、今までの自分を否定する事になる為。
伝えれば、彼女が取り乱すだろうと思った為。
アーサーの『愛』は、ムシュリカに向けられたものだったから。
マニカが『自由』以上に求め欲しがったものが、ムシュリカの元にあったのだ。
彼の真実は、マニカには残酷過ぎる。
全部、私の所為じゃないか。やっぱり、マニカを救えない。
アーサーはムシュリカを思っているから、マニカの想いは届く事は無い。
「ムシュリカ・・・大丈夫?」
アーサーの言葉の威力は彼らの予想以上にムシュリカに衝撃を与えた。
放心状態であったが、ヴァシュクの問いかけに気がつくと『うん。』と顔を拭いながらゆっくり答えた。
そして再びアーサーを見た。
彼の目は決して巫山戯た物ではなかった。
いつもの冗談ではなく、本気なのだ。
「アーサーさん。・・・私は、」
言うべきなのだろう。
マニカの言葉に彼も真実で挑んだように。
ただ、ムシュリカは今。
「だがそれを伝えるのに、遅すぎた。
僕は、もっと早く君に伝えるべきだったんだ。 そうだったら、」
そう、遅すぎたのだ。
ムシュリカ自身はハッキリと気付いている訳では無いけれど。
もっと、早く。
「・・・本当にそうよ。」
声が、聞こえた。
それも先程聞き慣れた声。
頭から稲妻が落ちたような衝撃が体中に走る。
声のした方向を全員が向いた。
どうやって此処まで辿り着いたのだろうか。だがそんな事を考えてられなかった。
それ程遠くでもない通路から、ひたひたとマニカ裸足で歩いてきた。
薄暗い通路の中でも分かる彼女の顔。
悲しみに満ちたそれに、目には恨めしさと妬ましさの詰まったもの。
『最悪』と言うような顔をしたヴァシュクが、マニカに近づこうとした。
「マ・・・、ニカ。」
「本当に、 なんでもっと早く言わなかったんですか?
この子が自分に鈍感なの、アーサーさんも知っていた筈でしょう?どうして言わなかったんですか?」
マニカの声は、涙ぐんで掠れていた。
彼女は、ずっとアーサーを慕っていたのだから。
知っていたのだ。
アーサーがムシュリカを好いている事に。 愛しさを思っている事に。
「何で、もっと早く・・・もっと早く言って欲しかったのに!!」
手に持っているナイフを振り上げる。
ヴァシュクが咄嗟に避けて、体制を整えてマニカに刃先を向けた。
「マニカ・・・幾らアンタでも私はムシュリカだけは・・・。」
「ヴァシュク! アンタだって同罪よ!
ムシュリカを擁護して、それで私がアンタを許すと思ってる!?
関係ない顔して遠くから私達を傍観しているなんて、・・・一番関係者だったくせに!」
わあわあ泣きながらマニカはヴァシュクに向かって刃を振り回し続けた。
身軽なヴァシュクはひらりひらりと避けていたけれど、どうやって止めれば良いのか悩んでいるようだった。
太陽の光に、二人のナイフがギラリと光る。それが大層美しく見えた。
「マニカ! もう止めろ! 僕は何と言おうと―――、」
「知っているんです! そう思ってももう私は私を止められない! 『全部』許せない!
私を受け入れてくれないアーサーさんも!無関係を装っているヴァシュクも!いっつもいっつもアーサーさんの側に付くサリネも!
私を『捕虜』にしたこの『国』も! こんな狂った世界全て!!
許せない! 許せない! 許せない!」
ムシュリカはマニカを止めたかった。
でも、出来なかった。 そんな資格なんて無い。
だが親友が苦しんでいるのに、助けだそうとしないのはもっと嫌だった。
ムシュリカはマニカをこれ以上裏切りたくなかった。
「全部僕が立て直す! 僕が君の失った物を必ず作ってみせるから!」
「今更そんな事言わないで! さっきも嘘を言っていた癖して!!」
マニカはボロボロだった。
信じていたものに裏切られて、夢も壊されて、大切な人を喪失した。
これ以上無い位マニカは『現実』に弄られ続けたのだ。
大振りに小刀を振り回して息切れをしているマニカは、ヴァシュクの急所に刃先を定めた。
ムシュリカは思わず身体が動いて、マニカの両腕で構えた小刀を奪おうと飛びかかった。
「止めてマニカ!! ヴァシュクが傷ついても良いと思ってるの!?」
「分かんない! 分かんないよ、そんなの!!」
小刀を放そうとマニカの指を解こうとするが、彼女の指は思った以上に食い込んであった。
小刀の奪い合いの中、遂にムシュリカは足を踏み外して足下に叩き付けられた。
鈍い痛みが体中に襲う中、背後にいるマニカが今度はムシュリカに刃先を向けていた。
頭が、真っ白になる。
これと似た事が先程にもあった。
そうそれは『満の間』であった、皇帝に斬られそうになった時。 その時と同じ危機の鼓動が胸から聞こえる。
「ムシュリカ!! アンタが一番許せない!!
アーサーさんにあんなに好かれている癖にそれに気付きもしないで!!
あんなにアーサーさんと一緒にいて、私よりもずっとアーサーさんに見られていて!!
私だって、 ・・・私だってアーサーさんの事が好きなのにっ!!!」
聞こえるのはマニカのムシュリカへの今までの鬱憤。
ああ、やっぱり恨んでいたのか。それならそうと、ハッキリ言ってくれれば良かったのに。
恨みを受け入れて、彼女を解放してあげたい。
そう思って、悲しさに涙を流しながら動かないでいた。
だが、あっさりとマニカの刀はムシュリカを貫かなかった。
直前でアーサーが滑り込んで、マニカの小刀を素手で掴んだ。
アーサーが庇いながら守っている事に気がつくと、咄嗟に身体を浮かせた。
「・・・アーサーさんっ!?」
「ムシュリカ、逃げろ!! 早くここから逃げるんだ!!」
アーサーはムシュリカを横へ押した。
床から抜け出せたムシュリカは、クローディアの方へと受け止められた。
アーサーはゆっくりと立ち上がって、マニカのナイフを押し放した。
深く抉られたのか、掌から血は流れ地面には点々と赤い模様が増える。
ヴァシュクがアーサーの隣に立って、マニカと見合う。
マニカは、赤い刃をアーサーに向ける。
「・・・・・アーサーさんっ!!!」
ムシュリカがそう叫んだ瞬間、アーサーの胸にマニカは飛び込んだ。
抱きしめられているように見えるそれは、アーサーがマニカを受け入れているようにも見えた。
アーサーの隣にいたヴァシュクは盾にならず、アーサーの隣でじっとしてた。
ヴァシュクを見るアーサーの目は恨みに燃えたものではない。 彼は確かに向けていた。 『感謝』の目を。
悲しそうな目をしたヴァシュクは、微かに笑うアーサーを見ると唇を噛んだ。
落ち着いた声で、アーサーは言った。
「・・・『破壊者』、 今度こそ、手放すなよ―――。」
そのアーサーの言葉の瞬間、ムシュリカとクローディアは吹き飛ばされた。
丸で風に押されたかのように、後ろへ。
『崖の先』へ。
この時を見計らったクローディアがムシュリカを捕まえると、二人は直下に落ちた。
滝の音の所為で、全てが真っ白になった。
アーサーの『魔術』だった。
最後の最後に唱えていたものは、ムシュリカとクローディアを逃がす為のもの。
風を使った簡単すぎる『魔法』。
出来れば実行するはめにならなければいい、と思っていた『保険』だった。
ムシュリカは悲鳴もあげず、崖先にいるアーサー達から目を離さなかった。
真下へ落ちる瞬間、
マニカの顔が見えたのだ。
『その顔』は決して忘れられない。
一番大切な人を傷つけた瞬間の、一番悲しみに満ちた涙でいっぱいの絶望の瞳。
不意に思い出したのは、『アシュラゴ鎮魂歌』にある舞巫女の、愛する彼の人を封じたその時。
ああ、彼女はきっとこれほど悲しかったのだろう。
消え行く意識の中、ムシュリカは思った。
ムシュリカとクローディアはやがて、滝壺の中へと見えなくなっていった。
先行きの見えない、未来を暗示するように。
了
信じることを止めた神様と、魂が芽生えた少女の『詩』
二人で知っていく、『生きていく』事を愛していく叙事詩
綴られるその『詩』の名は 彼の神の為の詩 太母の御名
【序章:降誕】 了 次章 【1章:神聖なる巡礼者】