著:華宵
この不穏な世の中、平々凡々と安定した人生を送れる方が何人おりましょう?
恐らくこの世に平和な生活とやらを送れた者はおりませんよ。 それは私も同じですがね。
まぁ 平和と言うもの自体、荒唐無稽なものなのでしょう。
申し遅れました。 私は語り部の、まあ仮に『影裏』としましょう。
何 本名を語るのは重大な事ではありませんし、これから語る事にはどうでも良い事と一緒です。
職業は、いまこれより『語り部』と言う奴です。 あまり話し上手では無いのですがね。
どうか飽きませんよう語りますので、 どうか不肖私の話に御付き合い下さいませ。
これより話すのは、そう所謂る『噂』ですよ。
『噂』は『噂』でも、世間一般で言う『昔話』と指すものです。
それを『気味が悪い』と思うのは皆様次第でございますがね。 さて、今回はこのようなお話です。
屋根裏邸:華の性 『松の針』
それは或る地方の郷の話である。
諸大名が治めた程の大きな地域ではないが、そこにも地主は居るし長者様もいるのだ。
住人達は畑に従事した生活をし年貢を納め、長者は長者で年貢を郷の発展の為に上手に扱い、郷の循環は安定していた。
そして郷でも一番の長者様の屋敷は、一里離れた場所からでも眺める事が出来た。
誰もその屋敷に近づく事は無い上、その住人がどんな者過も知らない訳だし、知る事も出来ないのだ。
それが、幸運だったのかもしれない。
その屋敷に一つの惨事が起ころうと、他の住人達は知る事はなかったのだから。
その郷一番の長者は、一人の奥方を持っていた。
噂では大変な美人だとか、華族から嫁がれたとか、大層な寵愛を受けているとかと様々あった。
ともかくも、奥方は凡そ齢十六の頃にその屋敷に輿入れした。
そして翌年、第一子に女児を出産した。
その子も珠の様に美しく、奥方に似るのだろうと郷はその噂で持ち切りだった。
そう、話はその女児から始まる。
*
郷一の長者の正妻・椿(つばき)は、誰もが寝静まった夜中に一人行燈を持ち、廊下を音を立てずに小走りする。
今この時間でしか動ける時間はなく、会える時間だって限られているのだから。
心は焦り、足を急がす気持ちだけが逸る。
ようやく目的の場所まで来た。 屋根裏まで続く梯子の前である。
普段この場所には奉公人だって近づかないのに、椿はこの場所にどうしても向かわなければならなかった。
行燈を片手に軋む梯子を一段一段上ってゆき、天井の薄い板を横にずらした。
天井を突抜け、上へ顔を出せば屋根裏部屋である。
夜の屋根裏は酷く冷え込み、春と言うのに秋風の様に風は冷たい。
そして行燈も屋根裏へ持ち上げると、その広さと静謐とした空間はより実感できた。
その中、その屋根裏の隅から衣ずれの音がする。
奥方が音のする方へ行燈を向けると、そこには一人の少女が居た。
「また月を見ていたの?」
母である椿は、彼女にそう問いかけた。
少女は空を眺めていた。 丁度その場所の格子から見えるのだし、今日は上弦の月だったのだから。
母が聞けば、少女は振り向いて言った。
「御月様に願いをかけていた。 私を連れて行って欲しいって。」
顔を悲しくさせて、椿を見た。
肌は白く、目は切れ長で睫は長い、そして形の良い唇に艶やかな黒髪を持ったそれは、絶世の美女と表せるだろう。
少女は勿論この屋敷の住人で、名を翳(かげり)と言う。
長い事この屋根裏に監禁されたような形で、外に出る事が出来ないでいた。
「またそのような事を・・・。 まだ無理に決まっているでしょう。」
椿は娘の儚い願いを一蹴し、娘に着物を差し出した。
「ほら、今日は斑咲きの燕子花。 父様が選んでくれたのよ。」
翳はそれを見ると顔を綻ばせ、それに手を伸ばし近づこうとした。
しかしそれは叶わず、パタと床に手は落ちた。
椿の傍らにあった行燈の光で、彼女の身体が露になった。
彼女の身体は着物を着ていても分かる。
彼女の左肩はあるが、それから先は風ではためいている。
それだけではなく、折り畳んでいる脚も見ればそれも一目瞭然だった。
左腕と、その上左脚も欠損していた。
彼女は、翳は五体不満足だった。
「そんなに慌てないの。 着替えさせてあげるから、上を脱ぎなさい。」
椿は娘の哀れな姿に一瞬目を細めると、翳に近づいて帯を緩めた。
「平気、母様。 私一人で出来る。」
彼女は母てのを振りほどいて、器用に片手で袖を脱ぎはじめた。
椿はそれを寂しそうに見て、新しい襦袢を広げた。
椿が、この屋敷に輿入れしてから十八年近くが経った。
生まれは華族だったが父が多くの負債を抱え、肩代わりと言う形でこの地方の長者に嫁いだ。
だが夫は椿の事を思ってくれたし、椿も彼が嫌いと言う訳ではなかったので夫婦間にそれ程支障はなかった。
そして嫁いでから一年、今より十七年前に翳を生んだ。
それはそれは、苦しい出産であった。
鼓動と連動して腹の苦痛が疼き、数時間経ってもそれは治まる事は無かった。
精も恨も尽き果てそうになった時、漸く産声が聞こえたのだ。
腹を痛めて生んだ子の声は、彼女の生涯の幸せとなった筈だった。
腹から出た子を皆が見た途端に、悲鳴を上げるまでは。
どうか生んだ子の姿を見せて欲しいと産婆に願うと、震える手で恐る恐る子を彼女に渡した。
その姿に、驚愕した。
身体の左半分が無いのだから。
夫は赤子を直ぐに捨てよ殺せよと椿に命じたが、待ちかねた我が子への情が強く、惨い事が出来なかった。
椿は夫に懇願し続けた末、根負けした夫は表に出す事を禁じて赤子を生かす事を許したのだった。
つまりこの成人に近い少女・翳は、一度も外に出た事が無いのである。
「似合う?母様。」
立つ事が叶わない翳は、片腕を広げてその姿を見せた。
その姿は形の良い顔と揃い、艶かしく美しい様だ。
「ええ。 とても可愛らしいわ。」
椿は娘の髪を梳かして、笑顔を向けた。
すると翳は母に聞いた。
「母様。 私の輿入れは何時になるの?」
椿の顔が無表情になった。
彼女は長い事、娘を欺き続けていたのだ。
樹の様に一本足しかない翳に、輿入れなど望めそうになかったから。
いつか、輿入れを望む家が此処へ来る。
その時この屋根裏から出る事ができ、他の家の者達同様に暮らす事ができると。
叶いそうも無い夢を語って、翳に夢を持ち続けているのだ。
「それがね、もう少し時間がかかりそうだと。」
「待たせるなんて悪い御家ねぇ。」と、翳の頭を撫でた。
抱きしめてくれる母に対して、翳は溜め息をつく。
「早く、お外に出たい。」
月を眺めながら、翳は外に馳せた。
*
母様は私に嘘をつく。
私に輿入れを願う家なんて無い癖に。
父様は私の事が嫌いだ。
私には左の身体がないのだから。
父様と母様以外、私は人に会った事が無い。
使用人の声は聞いた事があるけど、どうやら父様は屋根裏に近づくなと人に命じている。
だから友達はいない。 恋さえした事が無い。
『半落ちた化け物。』
父様は密かに私にそう言って私を詰るのだ。
認めるしかない。 なぜなら私は、成り損ないなのだから。
知っている世界は屋根裏と庭の景色だけ。
歩く事も出来ない私は、守宮の様に這って動くしか無い。
お遊びも、食事もろくに出来やしない。
でも、私にだって、 望みはある。
嗚呼 月に映える庭の松の茂りはとても猛々しいものだ。
あの樹一つだけだって、私は願うばかりだ。
いつもあの樹に、小さなことばかり欲する。
髪の様に鋭いあの松に触れられたら。
せめて、あの場所まで辿り着けたら。
あの松の実、食べられたら。
あの葉に、堅そうな葉に触れる事が出来たら。
脂の匂いを近くで嗅げたら。
?
松が近くにある様に感じる。
何故だか分からないけど、とても幸せな気分だ。
どうでも良くなってしまった。
これは松の匂い。
この針のような葉が、松。
添える様にある実が、松。
あああ、ああああああ。
松になれたら。
あああああああ、ああ。
あああ、あの松が あああああ 松が、 松が 松が、松が松が。
*
椿は常々、夫に翳の外の生活許してもらおうと縋るが、彼は許そうとしない。
娘が可哀想で可哀想で仕方が無い。
御家の為にも、此の家に尽くそうと思っているのに、
生まれた子が花嫁衣装も着ずに一生屋根裏しか生きる場所が無いのは、あまりにも無慈悲ではないか。
どうして私たち夫婦の子が、こんな生き方しか出来ないのだろう。
他の家の元気に遊び回る子供を見ては、椿は嫉妬した。
そして今日も、屋根裏に隠れ過ごす我が子に会いに逝くのだが、どうも様子がおかしい。
屋根裏から、翳の声が聞こえるのだ。
いつも廊下に聞こえるまで大声を出すなと五月蝿く言っているのに。
どうした事だろう、それも楽しそうな笑い声である。
「・・・誰かと話している?」
翳以外いない筈の屋根裏で、彼女は話しかけているのだ。
椿は屋根裏への扉を開いた。
「翳、どうしたの?」
母の椿が来た途端に、翳の会話は止まった。
屋根裏内はいつもの沈黙に包まれた。
「母様、待ってたよ。」
顔は明るい。 それがここ最近だ。
何か此の屋根裏の中でも嬉しい出来事があったのだろうか。
少しでも幸せと思える事があるのなら、それはそれで安心なのだ。
「今日も随分嬉しそうね。 何か良い事があるの?」
娘の食事を注ぎながら、椿は聞いてみた。
だが翳はそれに口を噤んで、言おうとはしない。
「神様に、 御願いしてた。」
ああ、どうかこの子に少しでも幸を。
願いは恐らく外の世の事。
叶いそうも無い願いを祈る娘を見ると、切なくなってくる。
だが娘はケロリとしていて、次いで椿に言ったのだ。
「母様・・・あの松の木の枝、私に持ってきてくれる?」
突然何を言うのやら。
だが娘は珍しく願いを言うので、大した苦労も無いし快く椿は引き受けた。
承諾すると翳は微笑んで、格子の外を見たのだ。
庭を見つめる翳の姿は、まるで恋した乙女のようにも見えた。
*
たかが松の枝を一欠片持ってきたが、あの翳の喜びといったらなかった。
翳は今の生活に満足しているようだし、椿は部屋に戻って安心した。
ここ最近、翳に会いに行く度の話題は庭の様子の話ばかりだ。
水捌けが悪いだの、そろそろ葉を切り落として欲しいだの、雑草を摘んで欲しいだの
まるで植物そのものにでもなったかのような、不思議なものだった。
それでも話は弾むし、気にするほどのことでもないのだが。
梅雨の今は屋根裏は蒸し暑いが、涼しい風が吹く事であろう。
そう考え、椿は箪笥から娘の夏の着物を取り出していた。
ただ、おかしいと思うことがある。
あの屋根裏部屋に入った時の違和感だ。
確かに翳は話していたと思う。
そして思い出すのは、部屋に入った途端の煙たさ。
一瞬にしてそれは消えたが、確かに憶えている。
あれは、忘れられない。
様々な思惑が脳裏に過ぎる中、襖の前に気配。
影の形からして夫である。
「何の御用で?」
椿は、奥方としての威厳を立ちつつ彼に尋ねた。
彼が、嫌いにだ。 大嫌いともとれるだろう。
特に、娘に化け物と呼び嘲笑っている彼が、許せない。
隠れて娘を虐めているのは、百も承知なのだ。
仮にも実の子であるというのに。
血も涙も無い、人でなしめ。
心の奥底で、椿は彼を責めていた。
大嫌いな夫は入ってきてなり言った。
『やはり、殺そうと思うのだ。』
彼が悩んだ末に出した決断だった。
椿は、目を開いて彼を見た。
*
夢に、貴方がいらっしゃって来た。
松様。 いつも私の傍に居てくれてありがとう。
私、お陰で一人でもちいとも寂しくない。
松様の枝を母様が取ってきて下さって、私その枝を簪にしているの。
貴方といつも傍に居られるの、これ以上幸せな事は無いわ。
嗚呼 松様のお話は尊くて、私では到底追いつかない話だと思っていたけれど、
どうしてかとても近い場所に居るのだと思えてくるの。
貴方の『翳』と呼ぶ声は、私に至上の嬉しさをくれる。
針のような指の痛さが、傍に居てくれてるのだと優しさを感じる。
松様、私 また月のものが来た。
月のものが来るとお嫁に行けると、母様が仰ってた。
初花の時は、とても喜んでらっしゃったな。
私、輿入れに行けるかもしれないの。
もしかしたら、お外へ出られるのかもしれない。
だからその前に、松様に恩返しがしたい。
私は、貴方に返せない程の恩を頂いた。
貴方の為なら私は、どんな事でもいたします。
もうじき母様が来てしまう。 松様、私に願いを。
ああ、強い松脂の香り。 それが、強く強く。 私を包んでいく。
痛い、痛い、痛い痛い 松の針が食い込んで、 血が、血が。
松様。 嗚呼、松様。
*
次の日また、屋根裏部屋から声が聞こえた。
悲しい知らせをなんと知らせようと思い悩んでいたが、我に返った。
そう考えていた椿は、様子のおかしい屋根裏に怪訝そうに顔をしかめる。
また、誰かと話しているのだろうか。
しかしそれは、笑いではない。
何かを探している。
それもトントンと、床を叩きながら手探りで探しているのだ。
あのように慌てる翳も珍しい、何か無くした物でもあるのだろうか?
声が聞こえる。 とてもとても震える声が。
「母様・・・母様・・・。」
いつもとは違う娘の様子に、ただ事ではないと感じた椿は、急いで梯子を駆け上った。
慌ただしく入った椿は、倒れた翳を直ぐに見つけた。
ただ、その前に驚くべき事が屋根裏内で起こっていた。
部屋に床一杯の松の葉と、壁中に塗りたくられた松脂の匂いが、 部屋は松で埋め尽くされていた。
部屋の様子にも驚いていたけど、異常な部屋に居た翳を思い近づいた。
訳が分からない。 外へ出る事が適わない娘が、部屋に松を散らすなど出来る訳が無い。
何があったのか娘に直ぐに問いかけた。
「母様・・・。 お腹が、痛い。」
何と娘の腹がはち切れんばかりに膨れ上がっている。
翳は何らかの病気でも持っていたのだろうか。
椿は焦った。
出す事を許されてない娘を、医者に見せるわけにはいかない。
外へ出せば、夫の逆鱗に触れてしまう。
しかし、翳の様子は病気とは違ったものだった。
それは、翳が淡々と語りだしたからである。
「母様・・・、喜んで。 私、・・・神様のお嫁様になれた。」
突然、何を言い出すのだろう。
神の嫁など、まるで人身御供のような事。
信じられる訳が無かった。
「あのね母様。 私、あの御庭の大きな松様といつも御一緒だった。
私が寂しい時、松様が傍で、御話しして下さって、私の心の内を分かって下さって、
だからいつも傍に居られる様に、母様に松の枝を御願いしたの。」
息切れに、娘は母に身の上を打ち明ける。
椿の顔は顔面蒼白だった。
娘は気が触れたのだと、そう思ったから。
「私がどう思うと、松様は神様で、私があの方に心惹かれようと無駄だと思ってた。
だって私は成り損ないの人間で、誰にも気付かれずに死ぬ運命だったから!」
吐き出すような娘の言葉。
それは、今までの鬱憤に近かった。
翳の本心は、椿の本心にも近かった。 椿だって何度か、翳を化け物の様だと思ったことがあったから。
「初花が来た時の事を松様にお話しして、そうしたら私のお願いと一緒だって。
思いは一緒だって言って、願いを叶えてやれるって仰った。 私の願いを叶えて下さった。
松様が、 私の中に御入りになって、・・・私にややを下さったの!
このお腹にはね!あの松様との子がいらっしゃるのよ!! 私は、松様のややを孕んだの!!」
その狂気とも思える考えと乗じて、翳の顔は大層な嬉しさに満ちていた。
声を上げて、笑っているのだ。
その、何がいるのか分からない腹の子を抱えて、 高らかに喜びを謳歌しているのだ。
「ねぇ母様! 私は松様の所へ御輿入れしました! もう御外へ出てもいいのよね!!
だって私、松様の子がいるのだもの! 見て、触れて!
この子は私の子です! 私達の子です! ほら! ほら!」
翳は母の片手を取ると、それを自らの腹の上に乗せた。
気が動転している椿は何が何だか分からないと言った様子だが、確かに温かさがあるのだ。
小さな鼓動が、胎児が動く様が。
母は狂った娘を抱きしめて、無理矢理落ち着かせようとする。
「・・目を覚ましなさい!! 腹に子には居ませんっ!!」
それは娘の幻覚をさます為か、自身に言い聞かせる為のものだったのか。
だが翳の肩を揺すって正気に戻そうとしても、彼女は狂気に走っていた。
彼女は肩にある母の手をゆっくりと下ろすと、愛でる様にその腹を撫でた。
「さあ、あなたの御父上の元に参りましょう・・・!!」
目をひん剥いた椿は、娘の変わった姿に脚を震わせ、傍らにあった行燈を横へ倒してしまった。
横に倒れれば、行燈の灯はみるみる松の葉を燃やしてゆき、ついに壁へと移っていった。
「ひいいっっ・・・!!」
母の椿の身体にもその灯は移った。 しかし不思議と恐ろしいのは燃える事より、傍に居る娘の事ばかり。
しかし翳の身体は火が移る事無く、それどころか彼女は横たわり静かに目を閉じていたのだ。
娘の脚からは、水が。
否、この匂いは松脂。
「ああああああああああ!!!」
椿は、遠くへ行ってしまった娘に手を伸ばすが、それほど力は残ってなかった。
娘は連れて行かれてしまう。 その化け物に。 あれほど守った娘を、松の樹如きに。
娘を返せ。 娘を返せ。 私の産んだ子を、返せ。
叫べども叫べども、それは届かない。
「お名前は何が良いのでしょうね・・・ねぇ松様。」
穏やかな翳の声を最後に、椿はその場に力尽きた。
椿が力尽きるのと同時に、翳の腹の痛みは増すばかりになった。
だが、それは苦しむ以上に、愛しく感じる。
燃え盛る炎と共に、身体の熱さも尋常ではない。
嗚呼、幸せで死にそうだ。
薄れる意識の中、翳は確かにそう感じていた。
翳は力尽きるまで高らかに笑えた。
それが、屋根裏の座敷牢しか知らない彼女の、人生最高の瞬間だったから。
そして、 それは一瞬にして消えた。
炎が身体を包んでいった。
おぎゃあ、おぎゃあ。 おぎゃあ、おぎゃあ。
*
その夜、屋根裏から発火した炎は郷中の者の目を直ぐに集めた。
郷中団結して炎を消そうと努力したが、結局翌朝に成るまでその作業は続く事と成った。
燃えた場所は屋根裏だけで、それ以外の家屋や部屋には不思議と移り火しなかったと言う。
そして屋根裏からは、充満した松脂の匂いと屋敷の奥方・椿の遺体一つが分かった。
娘の遺体は何処へ行ったのだろうと長者は探したが、とうとう見つからなかったのだ。
それ以外異常だったと言えば、屋根裏の床にいっぱいの松の葉が何故か燃えていなかったと言う事だ。
不気味な出来事は多かったが長者様は妻と娘を手厚く弔って、惨劇は幕を閉じた。
その後、二人が消えた屋敷からは可笑しな出来事があって、
何でもそれは、庭の大松から二人の女の微笑む声と赤子の泣く声が満月の夜に聞こえるとのものだった。
女の声はどうやら長者の奥方と一人娘の声に似ているそうだ。
長々と最後まで御清聴に感謝いたします。
彼らの平凡の中に起こった突然の悲劇。 如何でしたでしょうか。 お気に召さなかったですか?
これにて私の話は終りとなりますが、もうお気づきでしょう。
私の名の『影裏』は、娘の『翳』と掛けているので御座います。
この話は嘘か誠か、それは皆様次第と仰ったが、この話の『翳』が忘却と共に消え逝くのは、少々切ないと思いましてね。
これはせめてもの彼女への手向けの華と言う事なのです。 大した事のない、私のお節介なのです。
しかし、この話には分からない事が多くあります。
翳は本当に松の樹との子を生んだのであろうか、部屋中の松は誰が用意したものなのか、何より
彼女が本当に孕んでいたのかと言う事であります。
考えに寄っては神の御業ともとれるのでしょうが、所詮『噂』は『噂』。 確証は御座いません。
さてはて、生んだとしても彼女は一体どんな子を産んだのでしょうね?
それは、神か、人か、はたまた化け物か。
それを思うのも皆様の御考え次第であります。
そしてこれが、『翳』の平凡な人生だったのです。 彼女を世界を侵害するのは、これ以上は止めておきましょう。
それよりも私がどうやってこのお話を知る事ができたのだと?
確かにこの話は、長者とご婦人しか知る事が出来ないのですからね。 知れるわけありません。
くどいようですが、『噂』なのですよ。
長者が口を滑らしたのもあると考えられますし、奉公人達の作り話ともとれるで御座いましょう?
だから後の人間が何を考えようと勝手なのですよ。 この話を思ってこそ、少女・翳への『華』になるのです。
翳に限らず、何気ない人生でも話に『華』を添えてやるのが、後の人に出来る彼らへの後始末なんじゃないのでしょうか?
その実、話の中だけでも今も『翳』は生き続けているのですからね。
では皆様、また会う時までお元気で。
了