著:華宵



   今の御時世の皆様は、『迷い家』また『隠れ里』という言葉を耳にした事はありませんか?
   各地の民話などに伝わる『異界』の事であり、多くの伝聞にそれは残っています。
   容易に言えば、主に『神隠し』に遭った者が辿り着く場所と言う事なのです。
   確証は御座いませんがね。
   伝説によれば『隠れ里』は極楽浄土だとか、時の流れが違うとか様々あるのです。 不可思議なものですよ。

   申し遅れました。 私『空穂(うつほ)』と申す者で御座います。
   勿論源氏名でしてね、本名など取るに足らないものなのですよ。
   これより私は皆様の『語り部』となり、私が耳にした『噂』をお話いたしましょう。
   途中で聞き飽きる御人も、どうか気長にお付き合いくださいませ。

   以前から私の話をお聞きに来て下さる方も、素知らぬ顔でお願い致します。
   私はもう『影裏』ではないのですよ。 ここに彼女が居てはならないのですから。
   御題目は勿論、冒頭で話した『迷い家』についてで御座います。
   長い前置きにお付き合い下さいまして有難う御座います。 さて、今回はこのようなお話です。









    屋根裏邸:虚の性 『まよひが』









   古い昔、山奥の樹海に伝わる怪奇である。
   その森には足を踏み入れれば『神隠し』に遭うと言う恐るべき伝説があった。
   『神々の土地』や、『魑魅魍魎が跋扈する鬼門』などハッキリとした理由は無い。
   兎も角、その地は行方知れずになる者が余りに多い為、入る事を禁ずる禁忌の場所と定められた。

   その呪われた森の側には、小さいが村があった。
   外の社会と殆ど断絶してあり、情報が流れる事も少ない田舎の村だ。
   少人数ながらそれなりに村は成り立っていて、諍い事も少なく平和だった。

   それだから挙式も村人全員が参加し、村全体で祝う盛大なものとなる。
   老人もただでさえ多い上、子供自体がもともと少ない為だからだ。
   その当時の花嫁は、とても美しかった。 花婿も凛々しく、逞しい青年だった。
   あとは順調に式まで待つだけだったのだ。

   だが夫となる若者が、式前日に行方知れずとなってしまう。
   花嫁は不安に嘆き、親達は花嫁を思い狼狽えた。
   村一同が彼を探し回ったが、とうとう見つからなかった。

   近隣の樹海を除いては。

   そこは踏み入れてはならない領域。時に悲鳴の如き響きが伝う森。
   その地を恐れ、誰一人として探そうとする者は居なかった。

   『神隠し』に遭ったとされ、若者は死んだ事となった。
   花嫁は、輿入れ前から未亡人となった。
   村は暫く悲しさに愁い、花嫁も心労で床に臥せる事になったのだ。
   それから約半年後、話はその『花嫁』から始まる。



   *



   カサカサと葉が擦れる音が、子供の泣き声を髣髴させる。
   この場所まで足を踏み入れるのは、子供のころ伴侶であった彼と探検した以来だ。

   村娘の『空(うつほ)』は病弱になった身体を引きずって、悲鳴の森の前まで来ていた。
   日は沈みかけて黄昏になった空模様は、森と合わせて不気味なものに見える。
   そんな気味の悪い場所に来た理由は、ただ一つ。

   行方不明の恋人、『明人(あきひと)』に会いに行く為である。

   式の前日まで愛を分かち合った空の唯一の人。
   恐らく生涯、彼以外を異性として愛する事が無いのだろう。
   空の明人への思いはそれ程に硬く、潔癖なものだ。

   夕暮れの秋風は冷たく肌を震えさせた。
   彼が居なくなった途端に空の世界も破綻した。
   この世界に取り残されたような、一人ぼっちになったようなとても冷たい感覚だったと思う。
   兎に角、挙式の日から今日まで自宅の寝室位しか記憶に無い。

   彼の家も『花嫁を捨て村から逃げた』と根も葉もない噂をされて、彼を探して躍起になっている。
   そして彼女の家にも『関わらないで欲しい』との話も持ち込まれたのだった。

   彼女は、空はそれが我慢ならなかった。
   明人との繋がりを、頼みの綱を如何しても切りたくなかった。
   彼に会いたくてたまらなかった。 どのような事になったって怖くなかった。


   だから空は、 『森』へとやって来た。
   今一度、明人と会う為に。 彼と時間を共有する為に。


   静かに、瞼を開いた。  もう日は沈んでいる。
   辺りは静寂に囲まれた暗澹とした空と森が目の前にある。
   空はそれに何の迷いも無く、静かに足を踏み入れた。
   規則的な草履の音が、森の中に響いていった。



   *



   私は静かに目を開いた。
   木目が高く目の前に見える。 天井なのだろう。
   後頭部にある枕から頭を離して、身体を起こした。


   確か悲鳴の森を歩いていた筈である。
   でも記憶は曖昧で、一体どの辺りのどれ位の時間にこの部屋に来たのか皆目見当がつかない。

   部屋を見渡すと桐箪笥や布が被せてある化粧台の鏡があり、また花嫁衣裳の白無垢も飾られてあるではないか。
   私は一体、何故眠っていたのだろうか。
   誰かにここで寝るように言われた覚えもないし、この部屋まで辿り着いた記憶も無い。
   そもそも、ここは何処なのだろうか?

   それにしても随分と上等な家具と部屋である。
   こんな素晴らしい襖絵は見た事が無いし、明人様の家でもないし自分の家でもない事は確かである。
   そしてようやく思い出した。

   嗚呼、私は明人様を探して。
   一体何処にいらっしゃるのですか、明人様。
   私が彼を欲している時に丁度、襖の元で何かの気配がした。


  「御目が覚められましたか? 入っても宜しゅう御座いますか?」

   若い女の声である。 この屋敷の住人だろうか。
   私はどうとするでもなく、一人不安ゆえに彼女を部屋へ招き入れた。

  「どうぞ・・・。」

   立場故に控えめに答えた。   
   襖は開いて彼女は姿を見せた。

   それに一瞬、息を呑んだものだ。
   何せ彼女は面を備えていたからである。
   能のような不気味な女の面であった。
   彼女は丁寧な作法で布団の横に盆を置いて、水と薬袋を私に差し出した。

  「御加減はどうですか? 未だ御気分が優れませぬか?」

   誰と知らぬが、私に気を使って薬まで用意してくれる親切な御家である。
   正直気分は思うより良いとは言え無いが、

  「ええ、大分楽になりました。」

   と、彼女にそう伝えた。 安心したのか彼女は、息をつくように肩を落とした。
   彼女が立ち去ってしまうのではと心配した私は彼女に問うた。


  「あの、この屋敷は一体何処の御家の?」

   どうしてもこの場所の事を良く知っておきたい。
   一室まで貸してくださって、その上看病までして頂けたのだから屋敷の主に感謝しているからだろう。
   彼女はさも問題なく、淡々と言った。

  「ここの主は『稲畠の孝仁様』と仰りまして、この屋敷は夏用の御殿になります。
   諸国の長者様や大臣様も偶にお集まりする場所でありまして、今は大広間で前祝の最中で御座います。」

   彼女は簡潔に私に答えたつもりだったけど、それでも私は理解できなかった。
   どんな方なのだろうか、その『稲畠の孝仁』と言う者は。 森の奥にそんな屋敷などあったのか?
   不安に私が顔を俯かせていると、彼女はもう一度「大丈夫なのか」と聞いてきたので、
   本当に平気という事を強く伝えておいた。


  「それは宜しゅう御座いました。 結納前の花嫁殿が心配だと主もご心労で・・。」


   そう何気なく彼女は言ったのだ。

  「待・・・、」

   呼び止めようと思ったときはもう遅く、彼女はふすまを閉めて立ち去っていた。
   足音どころか、気配すら感じない。
   幽霊のように彼女はいつの間にか消えていた。
   夢を見ていたのだろうか。
   否、それが現実と言うように手元の薬袋と水が強く伝えてくる。

   心無しか、部屋の空気が冷たい。
   冬でもないのに、雪の日のように寒く感じる。
   私は毛布に再び浸かって暖をとる。


   主が何者かは知らないけれど迷惑はかけたのだ。後で礼を言いに行こう。
   きっと明人様の家の知人なのかもしれない。
   そう、きっとそうだ。
   布団と部屋の芳香が心地良くて、ウトウトとした意識が私にそう告げた。
   
   ああ、結納が無くなりそうになる所以を、 知らせなければ。
   彼の妻になる筈だった者なら、 そう 伝えなければ。



   *



   空は夢の中で明人の思い出を振り返る。

   物覚えがつく頃、自分は村で一番の末歳の子供だった。
   年上の姉兄達の話に早々ついていける筈が無く、話に混ぜて欲しくても邪魔者扱いされた。
   姉達のお洒落を真似しようとしても、子供の可愛いしぐさとしてあしらわれるだけ。
   可愛がられるのは嫌な気分では無いが、それでも壁があるのは辛かったから。
   彼女は孤独だった。 人一倍寂しかった。

   その同い歳が少なかった頃に、二人が近づくのは自然だった。

   明人は村の中では裕福な家に生まれた子供だった。
   始めて彼に出会った時を忘れない。 彼との間にある壁に恐怖し、拒絶した。
   明人も彼女が同じ歳の女の子ともあり、始めは悪戯や意地悪を空にしたものだった。



   だがその仲もやがて解けて二人は出会う度に、喧嘩をしたり笑いあったりと毎日が嬉しさで溢れていった。
   空が明人に向ける気持ちが、『友として慕う事』から『恋心として魅かれる事』へ移るのも思えば早かった。

   互いが同じ思いだった事を知った時は、生きてて一番幸せだったのだろう。
   それを思い出す度に、明人への気持ちも今も変わらずにいる。
   幸せだったのだ。 本当に幸せでいられたのだ。
   明人が、消える前夜まで。


   その日に全てが消えた。

   空は『疫病神』と彼の家族に罵られ、縁談を破棄された。
   彼女は床に臥せって、悪夢に悩まされる日々を送る事になった。
   ただ時折見るは、明人との優しい思い出。
   明人の呼ぶ『空』と呼ぶ優しい声、彼の温もり。

   家を恨んでいなかった。
   ただ、明人が恋しくてたまらない。
   彼にもう一度、会いたい。
   彼に抱き竦められ、『空』と呼ぶ声を聞きたいだけ。
   明人と共にいたいだけ。

   夢から覚める前に、空は思い出の彼に告げた。

   貴方が神隠しに遭って、山に登って『神』に成られたのなら、 その身を捧げたい。
   こんな哀れにも取り残された女をそれでも好いているのなら、 私は会いたい。
   貴方に会いたい。


   明人様。



   *



   目が覚めた。
   突然に、スッとだ。

   どれくらい寝ていたのだろう。
   部屋は仄く橙の色に明るくて、灯籠に灯が点いてあった。
   障子の外も前に覚めたときと比べると、幾分か暗い。
   ハッとして頬に触れてみると、涙を流していた事に気がついた。
   そしてまた夢の中の明人を恋しく思った。

   不思議と身体は軽いのは女中の者が手渡した薬のお陰だからだろう。
   身体のだるさも眠気もすっかり覚め、空は布団から立ち上がった。
   そろそろ、歩かなくては。

  「『稲畠の孝仁』・・・様。」

   此の屋敷の主に迷惑をかけた事と、結納が無くなった事を謝らなければ。
   幸い衣ずれも髪の乱れも大した事ないので、このまま部屋を出ても違和感は無いだろう。
   空は部屋を出る事に決めると、髪と着物を整えて布団を片付けた。
   そして、廊下の障子を開いた。


   廊下を見た瞬間に呆気にとられたのはその広さ。 その長さも明人の家と比べ物に成らない位だ。
   本当に、こんな大屋敷を支えている大黒柱は、どんな人なのだろう?
   空は『稲畠』という長者の力の大きさを知った。
   次いで薫ってくるは酒の匂い。 確か祝いの宴が行われていると侍女が言っていた。
   随分と長く続いているようだ。 宴会の迷惑にならないようにと、無意識に忍び足で廊下を歩く。


   窓側の磨り硝子の向こう側で、朧な月が使い物にならない明かりを放ってた。
   ひたひたと歩き続ける廊下に続くは無数の傘地蔵の群。
   風もないのに天井でカラカラと回る風車が、黄泉へと続く道路のように連想した。
   一定の間隔に灯籠が置かれてあっても、その不気味さは拭えない。
   勝手に思うのは悪いと思ったけど、空は此処の主人の趣味は気味が悪いと思った。

   橙の灯りの通りを余所に片手の宴会の部屋は増々盛り上がっていた。
   ここの主の元に訪れなければという目的があったが、一体何であんな高らかに笑ってるのか。
   女中の者が言っていた話によれば、重要な役職を持つ者が前祝いで騒いでいると言っていた。
   何の、祝いなのだろうか? 空はどんな名目の祝いなのか聞いていなかった。

   ただ重鎮の者が集まるのだ。
   農民育ちである自分に関しないが、何らかの大仕事が成功したとかそう言う事に違いない。
   そう思った時、立ち止まった。
   そんな重要な役割を持つ人に、私が会って良いのだろうかと。
   こんな身なりも粗末な娘が長者主人と顔を合わせていいのか?
   いきなり不安になったのだ。

   そうだ。
   まずそういった者と顔を会わすには、女中などの使いに話を通してからでは。
   足は自然と向い側の宴会の部屋へと向いた。

   こんな大きな宴会なのだ。女中の者がいてもおかしくない。
   空は障子に手を当てるが、また止まってしまった。
   そもそも長者や大臣様とは、どんな方なのだろうか?
   読賣で知ってはいても会って見た事は無い。  少しだけ好奇心が湧いた。
   空はまず、そうっと障子を開いて中を覗く事にした。
   酒と料理の匂いが、障子の隙間から流れてくる。
   骨碑や花札の騒ぐ声。
   部屋の中は廊下より明るかったから、様子はハッキリと分かった。


   後ずさった。 息を殺した。 眼をひん剥く。
   涙を溜め、身体は芯から震えてくる。
   背が窓に当たると足が竦んで、その場に座り込んだ。



   やれ恐ろしきは中に居座る多くの『鬼』『蟲』『狐狸妖怪』の百鬼夜行。
   貪り喰うは生き餌の牛、骨の髄まで啜る音、背筋を凍らせる水の音。
   やれ恐ろしきは盆に並ぶ七御膳、人肉腹腸の串焼き、煮込みの料理の数々。
   哮り狂い溺れる酒の肴に喰うは目玉の摘み。なますに斬られた人の刺身。

   栄耀栄華に暮らした人は、死んで未来は恐ろしや。
   粗末虐待なされしその人は、死んで未来は未来は恐ろしや。
   これはこの世の事ならず。



   見てはならない。 これは見てはならないものだった。
   なんて事だろう! なんて場所に、迷い込んでしまったのだ!
   中から聞こえてくる笑い声、勝鬨を祝う酒の匂い。
   これら全て、人のものではなかった。 部屋から賑やかに声が聞こえる。

  『今宵用意した肉は、それは名高い人間の肉だ。 大盤振舞いだ。 遠慮なく喰って喰って喰うといい。』

  『おおコレは美味い。 頬の肉は最高だ。』

  『酒もどうだ? 兵の生き肝を漬けてみたのだ。』

  『おおコレは美味い。 五臓六腑に染み渡る。』

   恐ろしい、話だ。
   中に居るのは人で非ず、獣で非ず、物の怪だ。
   人を喰っている。 茹でたり刻んだり、焼いたりして。
   うっと吐き気が腹から湧いて出る。
   早く此処から出なければ、私もあの鬼達の餌になってしまう。
   立ち上がる力が蘇って、柱を頼りにしながら空は前へと進んでいった。
   気配に気付かれたら、一貫の終わりだ。
   死ぬのは構わない。 だが死ぬ前に明人に会わなければ、死んだ後に未練が残る。

   一歩二歩とふらつく足は、少しずつではあるが力を取り戻していく。
   落ち着け落ち着けと自分を励ましながら、空は前を向く。
   途中で女中に会って、『稲畠の孝仁』の部屋まで教えてもらうだけでいい。
   それだけで、いいのだ。
   挨拶をしてこんな屋敷から出たい。 逃げ出したい。
   そう心から思った時。


  「探しましたよ嫁様。」

   足下を見ながら歩いていたから目の前に誰がいるのか気がつかなかった。
   顔を上げると鼻の先には能の仮面。
   ヒッと息を飲んでその場に尻をついてしまった。

   先程の、女中であった。
   部屋に空がいなかったから探しにきたのだろう。
   寧ろ空不在に驚いたのは彼女の方だったに違いないから。
   心の拠り所と言わんばかりに、空はその女中の手をとって立ち上がる。
   そして震える手をその人と重ねた。 恐ろしい位、冷たかった。

  「あ・・・あの私、ここの御主人に御礼を仰らなければ・・・。」

   言い訳のように空は言葉を紡ぐ。
   外へ出てはならないとは言われてないが、出てはならなかったのだろう。
   先程の物の怪を見たら、そう感じたのだ。

   「そうだったのですか。」と、何も感じず思わずの返答を女中は返した。
   彼女はスッと引いて空から手を離した。 空は再び掴んだ。

  「御館様が大変ご心配なさってました。 御早く寝室の方へ御戻りくださいな。」

   女中は未だ仕事があるのだろう。
   だが此処へ来てから唯一頼りの綱となる者の手を無闇に離したくない。
   あの妖怪の所へ、また通りたくない。

  「あの・・・嫁様・・・?」

   空は半ば話を聞いていなかった。 怖くて怖くて、堪らなくなったのだ。
   ポロポロと双眼から涙を流して、女中に懇願する。

  「お・・・お願いです。」

   もう、我慢ならない。 空は両の手で女中の手を力強く掴んだ。
   女中は何故、空が泣いているのか分からず困惑しているようだった。

  「嫁様、どうなさったのですか?」

   空は内なる望みを、女中に伝えた。

  「私を、 明人様に会わせて下さい・・・!」



   *



   女中の言い分は、着いていくのは良いが自分にはまだ仕事が残っているのだと言う事だった。
   だから『明人』に会わせられるのは仕事が終わったずっと後だとつけ足したが、空はそれでも構わないと言った。
   どう言っても着いていくつもりなのだろう。
   ならば少しでも早く終わらせて会わせたいと思ったので、少し自分の仕事を手伝って欲しいと告げた。
   二つ返事で空は承諾した。
   もとより身体は丈夫な方であるし、少しでも動いていないと気が晴れないのだ。
   仕事であの『宴』を忘れられるなら尚の事。
   我が侭は分かっている。 だがこれ以上待つのは耐えられなかった。

  「着きました。 ここが私の持ち場です。」

   惑う事なき調理場。
   竃や臼、膳の山が揃っていて、蝋燭の灯が一つ点っているだけ。
   しんとした静けさは、宴会とは真逆だ。

  「ここは、貴女一人で?」

   一人にこんなに広い調理場を任せられるとは思えない。
   女中は当たり前のように頷いて、さっさと作業に移った。
   彼女は数ある酒瓶を一つ一つ調べながら、空に手渡していって、それを受け取って並べていく単純作業。
   受け取りながら宴会で聞いた言葉を思い出して背筋が凍り付く。
   肝を漬けた、人を漬けた、 最高の美酒。
   どんな酒が入ってあるのか分からなかったが、手伝っている身なので無言で受け取っていった。
   二十種近くある酒を厳選して選んだそれ等は、奇怪な物ばかりだった。
   だが芳香とした匂いは嫌なものではなく、甘くそそられる匂いのものばかりだった。

  「・・・果物酒?」

   下戸の身なので酒には詳しくないが杏子や梅の酒に近い薫りは直ぐ分かった。
   分かった途端に安心した。 禍々しい想像ばかりしていたのだから。
   不思議そうに女中は言った。

  「そうですよ。 そうでなくて何だと思ったのです?」

   怪訝そうな顔をしていた女中に空は『何でも無い』と話を濁して酒を徳利に注いでいった。
   客人が多い所為か数も半端ではない。
   確かに酒を選び注ぐだけなら一人でも良かろうが、一人で運ぶとなると苦労するであろう。
   果物酒は料前酒のものかと納得すると、だんだん自分の見て聞いたものは実は夢か幻だったのではないかと思い始めた。
   普通、物の怪などが酒や飯を上がるのか?屋敷で宴など挙げるのか? 有り得ない。

   二人は一通り酒を注ぐと盆にいくつも乗せて、次々来る下女に手渡していった。
   所によっては女中は一人一人に酒を手渡す者の指示を出して、下女達は右へ左へとそれぞれの方向へ散り散りと別れた。
   その間、空はうんともすんとも言わずにその作業を見ていた。

   女達の作業は見ていて不気味だった。
   淡々として無機質で、機械的なその動きは丸で人形のようだ。
   なにせ下女達も、その女中同様に不気味な仮面を備えていたのだから。
   この屋敷では素顔を見せてはならないと言う仕来りでもあるのだろうか。
   好奇心から空は女中に聞いてみた。

  「この面を備える事が屋敷においての最低限の作法になります。
   由来は分かりませぬが、私達下女達はお客の者に素顔を見せる必要は無いのだと仰せつかっております。」

   なら、面を備えてない空は異質なのだろう。
   毎度毎度忙しく来る下女達は、おかしそうに空を見ていたのだから。
   この屋敷の作法を貶しているようで、少し申し訳なく感じた。


  「さあ、これが最後の盆です。」

   話を遮って、彼女はずいっと空に差し出した。
   女中に手渡された最後の盆は、大層上等な彫り物が施された盆で、上に乗っている徳利や猪口も高価そうな陶器のものだった。
   どうにもできず空はそれを受け取った。 何故、これだけを手渡したのだろうか?

  「これは御館様の為の物。 貴女が届けて下さいまし。」

   女中は『着いて来て下さい。』と彼女を手招きして、廊下へ出た。
   ようやく『稲畠の孝仁』と言う者に会いにいくらしい。
   空は強ばる足を無理矢理に動かして歩き始めた。

  「私が、手渡して良いのでしょうか? 貴女の仕事なのでは?」

   彼女の仕事を横取りしてしまったのだから、負い目を感じてしまう。
   だが彼女はちっとも気にせずに、

  「御館様はそうお望みなのです。」

   とあっさりと答え返した。


   『孝仁』の部屋は屋敷のずっとずっと奥にある、一層暗くなった廊下の終の所にある。
   宴の騒がしさは次第に遠くに過ぎていって、静謐な寒気があたりを包みこんで障子の向こう側で月が煌々と輝き始めた。
   彼は宴の前祝いには参加せず、自室で本会を待っている。否、森で拾った空を待っているのだ。

   『孝仁』の部屋と向かい合う。
   近くに来る度、緊張してきた。
   この異様な屋敷の主人とようやく顔を会わす事になるのだから。

  「それでは、私はこれにて・・・。」

   障子と顔を合わせている隙に、女中の人は帰ってしまった。
   いや帰るというより例の如く、幽霊のように消えてしまっていたのだ。
   取り残された空は今更帰る訳にも行かず、戸惑ってオロオロと焦り始めた。

  「そこにいるのは、誰だ?」

   障子の奥から、声が聞こえた。
   物静かな優しい響き。



   *



   不躾にも、私は障子を開いた。   
   その部屋に誰がいるのか、今ハッキリと分かったから。

  「・・・明人様っ!」

   目の前にいるは、1年前に姿を消した婚約者の姿。
   昔と変わらぬ凛々しい顔立ち、落ち着いた表情。
   名を呼ばれた部屋の主は、眼に涙をためた恋人を見て眼を開いた。

  「空・・・ようやっと、この辺境の地で。」

   時の長さの感慨に耽って、またその喜びのこもった声。
   彼も待ち続けていたのだ。 空がいつかこの場所まで来てくれる事を信じて。
   空は彼に縋りよった。
   彼も受け止めて、空を抱きしめた。

   嗚呼、明人様の匂いだ。
   明人様の暖かさだ。

   寂しさと喜びに空は涙を流し続けた。
   その間、明人は空の頭を撫で続けた。
   人の地を離れて、二人は漸く巡り会う事が出来たのだ。



   空が泣き止めると、明人は自身の経緯を語った。
   どんなに恐ろしいものでも、空は受け止める覚悟は出来ていた。(明人が抱きしめてくれたのと同じように)


   明人と空が婚姻を結ぶ二月前、明人は現世で空と結ばれぬなど知る由もなかった。
   二月前に明人の家の中で、とんだ不祥が起こったのだ。
   その不祥は空に理解出来ないものばかりだったが、重要なのは山へ輿入れする子供が居なかったのこと。

   明人の家が郷の中では長者の家を誇れるのは、彼の家が代々山の神に子を捧げていたから。
   郷の者達には知られていない知られてはならない、明人の家族だけが行う因習なのだ。
   捧げられた子は山の神に浄化され『福を呼ぶ神』となり、明人の家に集中的に福が注ぐ。
   福の神がその家に住まっていたからだ。

   だがその年に限って、子が生まれずまた居なかった。
   家の者達は焦った。
   このまま福が途絶えてしまったら、富が崩れてしまったら。
   欲に溺れた者達を明人は見てられなかった。
   彼は当主候補でありながら因習に嫌気を思い、子供の無駄な犠牲を誰より考えていたからだ。
   そこで明人は自ら供物の志願をして、家の者達を納得させた。
   家族の中では明人は一番年下であったし、恐れずに神の身元に行くと言ったから。

   そうして明人は式の前日には山へ入ってしまい、明人の行方不明は家の者達が挙って作り上げたのだった。
   その婚約者である空が一方的な非難に遭う事も承知の上で。


  「現世を離れる事に恐れはなかった。 ただ一つ心残りがあるならお前の事。」

   明人の腕の中で空は静かに聞いて、切なくなった。
   なんて悲しい事なのだろう、なんて哀れな人なのだろう。

  「家の者や郷の者を省みる気はなかった。
   だがお前は何も知らず、何も告げずに消えた私の所為で嘆き苦しむのではないか。
   恨み憎むのではないのか。 常にそれを思った。」

  「そんな事、貴方に振りかかった事と比べたら・・・。」

   確かに悲しみはしたが恨みはしなかった。
   それに明人が山のどこかに居るのなら、それは生きる希望になった。
   明人の話は続く。


   この屋敷が何時の世からあるのかはそれは知らない。
   分かるのはここは八百万の神、狐狸妖怪が常に宴に酔い森羅万象の祝杯を交わす特別な場所。
   人間や獣畜生を餌とし魂を糧とし、神々がそれを食らう度それが山の豊穣に繋がるのだそうだ。
   勿論、明人以外に人間は居ない。

   その管理をし見守るものが名乗る御館様の名が『稲畠の孝仁』で、山の供物になった者がそれに位置ずく。
   その現在の『稲畠の孝仁』を担っているのが明人で、この屋敷の事実上の主なのだ。

   『孝仁』の役目は人間が食らわれるのを見続け、そして肯定し続ける。
   その役を子供がし続けるのだ。 とてもじゃ無いが耐えられないのだろう。
   主を降りた子供達はその後魂が砕かれ、恐怖に怯えながら消えてしまったそうだ。
   明人で良かったのだ。 彼は子供ではないが大人でもない。
   空は納得した。 森で時に響く悲鳴は、子供たちの怖がる声。

   再び明人を見る。
   恐怖を見続けるが、その者に山の神から莫大な支配を認められる。
   この屋敷で、明人は神なのだ。


  「供物に成る際、家の者達に告げた。
   『私が最後の供物だ。今日以降、子を山に立入らせるな。』と。
   だから、もう子が贄に成る事はない。」

   それはそうであろう。明人が消えて以来、森の悲鳴が聞こえなくなったのだから。
   明人が最後の犠牲に成る事で、多くの者達がその災厄から逃れる事が出来る。
   山への供物に成る事も誇りに思った。

  「私はこの屋敷にて、人が食らわれるのを見続ける事に成る。
   だが今日お前が此処へ来た事で、恐怖から耐え抜く一縷の望みを垣間見る事が出来た。」

  「私は・・・明人様の望みに成られたのですか?」

  「勿論だ。」

   出逢えただけでこんなにも福に満ちている。
   側に居てくれるのが、どれほど幸福な事か。

  「・・・空が、また現世に戻りたいというのなら、 私は喜んで見送ろう。
   私は出逢えただけで十分だ。 この場所にお前まで縛られる必要はない。」

   優しさ、だがそれは同時に空の絶望。
   空の心は既に決まっているというのに。

  「空。お前は不遇にも山の供物になってしまっただけだ。
   理由も訳も分からぬ此処へ居てはお前の身体に障る。 さあ早く。」

  「いいえ、明人様。 私は此処へ留まります。」

   空は明人の手を確りと握った。
   そして明人の顔を見据えた。

  「私はこの山へ立入る際、全てを置いて此処へやってきました。
   家の父と母、幼い妹達、身の回りの物や周りの縁を断ち切ってです。
   今更帰れる所などありましょうか?」

   明人は空の眼を見る。
   涙の止まった眼は、力強く真剣だった。

  「貴方を置いて帰れましょうか? 恐怖と戦う貴方を置いていけましょうか?
   私は何時だって貴方の側にいたい。 貴方と共に在り、貴方を支え永久に側にいたい。」

   それは祝詞のような呪詛だった。
   その意味は、永遠にこの屋敷に囚われ続けるのを肯定する事。
   束縛の呪い。

  「明人様、空はずっとお側におります。 貴方と共に此処で生き続けます。」

   それでも明人は嬉しかった。
   こんな狂気に満ちた屋敷に、空が留まってくれるのだから。
   一層、明人は空を強く抱きしめた。


  「私がもう人でないのにか? 此処へ訪れる妖魔と同じ類であるのにか?」

   空は頷く。

  「もう父母達にも会えないのに? もう元の世にも帰れぬのに? 恐れの館から逃れられないのに?」

   空は強く頷く。

  「お前を永遠に此処に縛り続けるのに? ・・・私がもう手放さないのにか?」

   しつこい位問うてくる明人に空は告げた。


  「・・・はい、明人様。 居ましょう、ずっと一緒に。」

   また流れ出てくる涙を止めずに、空は笑った。




  「お前は最後の供物となった。
   だから私はお前を手厚く迎え、お前に至福の時を約束しよう。 共に此処で。」

   なんて誇り高い事だろう。
   山の神に至福を約束して下さるなんて、なんて嬉しき事だろう。

   明人が誓いを立ててくれたのだ。空も彼に誓った。

  「・・・明人様。
   ・・・この地をこの屋敷を、私達の子で満たしましょう。
   私達二人だけではない。 私達の一族を増やし、多くの至福を肥やしましょう。」

   二人の世、二人の郷。
   彼の子を生み続ける事を空は誓った。 彼の幸せを作る事に。

  「ずっとずっと、 一緒に消えるまで。」

   持ってきた酒を注ぐと、二人は挙式を挙げる時のように杯を飲み交わした。
   果てのない久遠を契るように。



   *



   花婿が失踪して一年後、花嫁の空も消息を絶った。
   彼女を見た村人は、森の中へ足を踏み入れていったのを最後に見失ったと皆に伝えた。
   村人達は思った。 明人を思って山へ入り込んだのだろうと。
   彼女の意を止めようと思わず、彼らは二人を諦めた。

   空が居なくなったその夜、彼女の父は不思議な夢を見た。
   娘が居なくなった悲しさに打ち拉がれているにも関わらず、幸福な夢を見れたのだ。
   空と婿の明人が挙式をあげている夢である。
   だが出席している者の出で立ちは不思議な物ばかりで、中には人でない者も混じっていた。
   それでも娘は幸せそうで、多くの者に二人は祝福されていた。

   また彼女の母は、生まれたばかりの子を大事そうに抱えあやす二人を夢で見た。
   一人から十人と、二人を囲う子供達は増えていき、生まれる度に二人は喜びあっていたのだそうだ。
   二人共、心の底から幸せそうに。


   そんな怪奇から、数十年後の事。
   村の者の一人が、山の奥で不可思議な郷を見つける。
   多くの人間が住まうその郷は、外界から断絶した限り或る生活を営んでいたようだ。

   同じ親族者同士の婚姻が多い所為か7・8才程度の考えの者ばかりで、
   村がどのように成り立ったのか、どのように生活しているのか殆ど理解出来ない事ばかりだった。
   ただ彼らは信仰心は一層強く、二体の像を山の神と崇め讃えて特殊な信仰を送っていた。

   彼らが祀っている神は一人は高い身なりの若い男。もう一人は花嫁衣装に身を包んだ美しい女。
   二体は互いに寄り添って、幸福そうに笑っていたそうだ。









   長い物語のご清聴を有り難うございます。
   無き人を思う故に迷い込んだ異端の世界。 皆様はどう感じ取れましたでしょうか?

   これが私が聞いたお話です。
   山の神に身を捧げた者、迷い込んだ者は必然的にこの怪異に見舞われる事が度々あるようです。
   中にはその帰還者もいて『その者は長者になる』『家の畑が豊作になる』と言ったように、
   そういった類いの福に恵まれるとも言われていて、山への供物は積極的に行われたようです。
   
   お気づきでしょうが、私の今回の源氏名の『空穂』も怪異に見舞われた彼女を思っての事です。
   ただこのお話を聞いて、皆様はどう思われました?
   歪な形で結ばれた二人を悲しく思いました? それとも福を約束された彼女が羨ましく思いました?
   まあ思う事は人それぞれなので、それには触れないでおきましょう。

   さて、後に神と崇められた二人。
   その山に住まう者達は果たして何処からやって来た者なのか?
   そして二人は今どうしているのか?
   思う所ありますが私に問われても困りますよ。
   私は『噂』を聞いただけなのですから。 事実は彼らしか知る由がありません。

   ただ話の中にあった山の者達と同じように、『物語』も信仰です。
   思う人、信じる人が居る限り、話は生き続けその人物も存在し続けるのです。
   重要なのは信じるか信じないか、その二つなのですよ。
   信じる人が一人でも居るだけで、空と明人は在り続ける事が出来るのです。
   しかしそれは狐狸妖怪の存在も信じる事、少しだけ背筋が凍りませぬか?


   そして皆様ご存知ですか?
   『物語』という言葉の意味です。
   そもそも『物語』というのは端折った言葉であり本来『物の怪語り』となるのだそうです。
   物の怪が語る恐怖、悲哀、慕情。
   それに惑わされ、誘われていく私達。 底知れぬ妖しさと魅力を感じませんか?
   分からない? ならば致し方ない。


   最後に語ると在れば、私の思う空と明人です。
   信じる信じないの前に、お二人とも随分と満たされてますね。
   全てを投げ捨ててまで明人の側に居ると誓った空。 あらゆる恐怖に耐えるために空を置く事にした明人。
   激動の始まりと思うと同時、私はこの話を聞き終えて『嗚呼、二人は幸せなのだろうな。』と。 その一つを強く思うのです。


   それでは皆様、またお会い出来るその時まで。




   了